梯子

                                梯子

 ふと、気が付くと、俺は梯子を登っていた。何故、登っているのかわからなかったが、ただ闇雲に登っていた。
 俺の登っている梯子は木製だった。角ばっていず、丸みをおびていた。俺は考えた。梯子があるから登っているんだろう。元来、梯子というものは自分達の身体で到達することの出来ない所へ登るための道具だ。だから俺もきっと自分が背伸びして掴めないものを掴むために、この梯子を登っているんだ。
 そう考えてみると、この梯子の一番、上には何があるのか気になって、上を見上げてみた。今まで一度もそんなことをした記憶はなかったような気がする。先程、自分が梯子を登っていることに気が付いたにも関わらずにだ。
 上の方には何もなかった。何もなかった。ただ、遠々と遥かな彼方まで梯子が続いていた。暗闇の中を遠々と梯子が伸びていた。一直線に梯子が伸びていた。あまりにも上に伸びているので、目の届く限り、梯子の上方は暗闇の中に溶け込んでいた。
 俺は不審に思い、梯子を登る動作を止めた。手を休め、足を休め、梯子の中空で身体を休めた。
 変だ。到達するべき場所がない。俺は何のために、この梯子を登っているのだろう。そうだ、こういう時は自分が何処から登ってきたのか、確認すればいい。出発点の存在意味には到達点の存在意味も含まれている。
 逆に、今まで自分の登ってきた梯子の下方に目を降ろした。
 ない。何もない。上を見上げた時と同様、梯子が一直線に遥かな下方へと伸びていた。暗闇の中に。
 俺の心は不安にかられた。出発点がない、ということは到達点がない、ということでもある。俺の疑問は更に深まった。上も下も暗闇ということは、俺の周囲も暗闇ではないのか。目を回してみると、そこもやはり暗闇だった。こういう状況では自分が上に登っているのか、下っているのか、わからなくなってしまう。自分が上に登っている、という先入観が「下に降りている」という事実を曇らせてしまう。
 俺は梯子の中空で悩み始めた。態勢が苦しいので、梯子にへばりつくように身体をからませた。
 落ち着け。落ち着け。こんな時には冷静沈着さがものをいう。
 俺はもう一度、自分の状況を判断した。暗闇の中に梯子がある。その梯子に俺はしがみついている。自分の頭がある方が上なのか、自分の足のある方が下なのか。それとも逆なのか。ともあれ、到達点が見当たらない、という事実が俺を悩ませた。俺が梯子を登っている意味もないし、第一、梯子の存在意味すら失われるではないか。
 俺は梯子に身体をからませながら身震いした。妙に身体が重く感じられた。
 俺はこんな所で一体、何をやっているのだろう。上も下もわからない。
 その時、単純な事に気が付いた。身体が重く感じられる、とは、少なくとも重力がある、ということを意味する。その重力はどちらに感じられるのか。下だ。俺の足がある方角だ。してみれば、俺の頭のある方角が「上」なのだ。
 俺は再び目を「上」の方へ向けた。いつまでも、ここにじっとしている訳にはいかないだろうし、俺が気が付いた時に梯子を登っていた、ということは「上」に何かがあって登っていたに違いない。
 俺は迷いをふりきり、再びこの梯子を登り始めた。
 そう、俺は確かに梯子を登っていた。「登る」ことは、同時に力を使うことだ。その証拠に俺は汗をかき始めた。一段一段、右手と左手を、交互に梯子の欄干を掴みながら、俺は梯子を登っていった。両手に汗もにじんできたし、身体からも汗をふき始めた。俺は確かに重力に逆らって「上」へと登っていた。しかし、俺は出発点と到達点がない、という事実に相変わらず悩まされていた。それにこの梯子の意味だ。垂直に伸びている梯子なので身体をギクシャクさせながら登っていると、疲れる。せめてもう少し、ゆるやかな傾斜があればいいのだが。
 疲れて登っている際中に、俺は何時か、何処かで読んだ本のことを思いだした。血の池地獄から脱出しようとする物語だ。俺はその物語を思いだすと、ふと身体を休めて梯子の下方を見た。なぜならば、その物語に出てくる蜘蛛の糸には、主人公の他にも、血の池地獄の亡者達が群がり、地獄から這い出そうと躍起になっているからだ。
 しかし、俺の下方には誰もいなかった。つまり、この梯子は蜘蛛の糸ではない。純粋に俺だけのものなのだ。俺は安堵すると同時に溜め息をついた。あの物語の主人公は自分の出発点が地獄であると知っていた。出発点を知っていただけでも幸せだ。俺にはその出発点すら思いだせない。「出発点がある」ならば、当然、目標というものがあるからだ。だが、俺の上には梯子が遠々と続いているだけだ。
 俺は気をとりなおして、再び梯子を登り始めた。
 やがて俺の身体は疲れきった。何度も手を休め、足を休め、肩で息をした。どうやら辺りに霧が出てきたらしい。先程までは上を見上げると鮮明に梯子が見えていたのに、霧のためにうまくそれを見通せなくなった。どんよりとした霧が俺の行方をさえぎった。ただでさえ、梯子を登ることによって汗水をたらしているのに、霧の水分のため、俺の身体はずぶ濡れになった。
 両手が痛かった。不意に右手を見ると血が出ていた。急いで右手で梯子の欄干を持ち、左手を見ると、やはり血が出ていた。しかも手の豆が破れて出てきた血ではなく、ヤスリで手をこすったような具合の血の出方だった。
 驚いて俺は梯子を見た。すると梯子が木製ではなく鉄製になっていた。しかもサビていた。これでは俺の手が傷つくのは当たり前だ。
 自然に俺の動きは止まった。
 確かにこの梯子は木製の筈だった。なのに何故? 何時から鉄製になったのだ? 
 俺にはその理由がわからなかった。俺はためらった。そしてもう一度、梯子の意味を考え直した。梯子とは「上」に登るためのものだと思っていたが、「下」に降りるためにも使われるではないか。
 高い所から飛び降りれば堕死してしまう。だから梯子をかけて、それを使い、安全に下に降りるのだ。
 そうだ。「上」に行くことばかりが梯子の目的ではない。「下」に降りるという目的もあるのだ。梯子の持つ意味は「上」か「下」だ。簡単な事実だ。
 もし俺がこの梯子から手を離せば、何処までも、何処までも落ちてゆくだろう。
 だが、俺が今までこの梯子を登ってきたということは、遥か下方に俺の出発点があるのを示唆している。
 俺は進退きわまった。どうすればいい。このサビ具合からすると、これ以上この梯子を登ることは、俺の手を殺してしまうことになりかねない。それに俺は重力に逆らって登ってきたから疲れきっていた。霧も深まり、「上」も見えなくなった。
 俺は決意した。下ろう。降りよう。出発点を見よう。
 そして下りかけたその瞬間、重力が逆さまになった。俺の頭のある方角に重力が向いた。俺は「上」に落ちそうになり、とっさに手と足をサビだらけの梯子にからみつけた。つまり逆さ吊りの状態になった。
 その上、鉄の梯子が更にサビだし、ボロボロになりだした。これ以上強く梯子にしがみついていると、梯子全体が壊れてしまい、俺は身の置き場を失くし、「上」に墜落してゆくに違いない。
 登るしかない。砂時計の砂は常に下に落ちる運命にあり、上の器の砂が無くなればひっくり返して、下の器が上の器になって、そこから砂が流れ落ちる。それが無限に繰り返されるのと同じように、俺も下に降りようとすれば、運命という奴にこの梯子をひっくり返されて、俺は上に登らなくてはならないのだ。
 俺は知った。この梯子は俺自身だ。砂時計と同じように、この梯子には「上」と「下」の区別がないのだ。だから俺には最初から出発点や到達点がある訳なぞ、ないのだ。
 この梯子は俺だ。
 俺は、その時、俺の頭のある方角に重力が向いているにも関わらず、この梯子を上に登った。それは君の目から見れば梯子を「下」に向かって登っているように見えただろう。砂時計の砂が下の器に落ちずに、重力に逆らって、上の器に砂が登っているのと同じように。
 俺は以前の「上」に登っている時と同じ格好で、この梯子を「下」に登り始めた。俺はこの梯子から落ちてしまわないように、両足を梯子にからみつけ、力をこめて、両手を交互に動かして、梯子を掴んで下に登った。
 梯子のサビが俺の手足を更に傷つけ、血を流させた。頭に血がのぼった。そして右手がボロボロにサビた梯子の欄干の一つを握りしめた時、梯子全体がとうとう崩壊した。
 砂のようなおびただしい量の鉄のサビと共に、俺は真っ逆さまに墜落していった。
「ダメか」と思った瞬間、誰かが俺の右手を掴んだ。そして俺は虚空の中で中ぶらりんになった。下方には、真っ暗やみの中に、元は梯子であった鉄のサビが大量に落ちて行くのが見えた。俺は助かった。
 見えざる手が俺の右手を掴んでくれたのだ。
 俺はその手に助けてもらった。俺の右手を握りしめている、その手は暖かかった。
 それは君の手だった。

            1993/1/30

     by 坂本 誠

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