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2013年5月 9日 (木)

三千百九十九: News_No.185

(以下、『放射能関連ニュースメモ』様、2013年5月5日記事より引用)

(※筆者注:改行の件だけは、私の方で処理させていただきました。)
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●駅前トイレで寝泊まりするトリプルワークの女子高生、車上生活の園児、食事求め保健室に行列する小学生
http://memogoldentama2.blog.fc2.com/blog-entry-407.html

これは酷い・・・

すくらむより転載
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-11524609888.html

  きょうは「こどもの日」。
  あらためて、子どもの貧困問題を見つめてみたいと思います。

  過酷なトリプルワークで睡眠2時間
  駅のトイレで寝泊まりする女子高生

  ◆アルバイト代で学費や自分の生活費を稼ぐだけでなく、家計の援助もしなければならない高校生たち

  ◆100円ショップの50枚入り薬用オブラートで空腹をまぎらわす高校生たち

  ◆東京近郊の私鉄の駅前にある多目的トイレで寝泊まりする女子高生。
  彼女は午前6時から9時までコンビニのレジ打ち、午前10時から午後3時までファストフード店で働き、午後5時半から9時まで定時制高校の授業、その後、飲食店で深夜労働という過酷なトリプルワークをこなし学費と生活費を稼ぐ。
  時間がないので、駅のトイレで「1日に2時間眠れたらいい方」。

  ◆子どもたちが朝食を求めて行列ができる大阪の公立小学校の保健室。
  給食のほかは何も食べられない子どもなどが増えているため2008年から保健室で朝食を出すようになった。
  お金がかかるから歯医者に行けず、視力が低下してもメガネを買えない家庭も増えている。

  ◆「先生、孫だけでも夜、保育園に泊めてもらえませんか」「1カ月前から、家族で車の中で寝泊まりしているんです」

  ◆ガリガリにやせて、体がふらふらして保育園の廊下を真っすぐ歩くのが大変な子ども。

  ――以上は、保坂渉・池谷孝司著『ルポ子どもの貧困連鎖――教育現場のSOSを追って』(光文社)に書かれている子どもの貧困のいくつかのケースの一部抜き書きです。

  病気になっても病院で診てもらえない
  予防接種も受けられない子どもたち

  ◆大阪の公立高校。修学旅行に行く2年生140人中、家庭の経済的事情で積立金滞納などによって20人が修学旅行を欠席。

  ◆月8千円の学童保育料が払えず留守番をする小学生。

  ◆無保険の中学生以下の子どもは全国に約3万2千人。
  無保険世帯の子どもを年齢別にみると、0~6歳の乳幼児は5,275人、小学生は1万6381人、中学生は1万1120人(2008年、厚労省調査)いることが分かり、2009年春から国保法改正で滞納世帯でも中学生以下には短期証が交付され、窓口での全額負担をしないですむようになった(2010年7月から高校生も短期証発行の対象となった)。
  しかし、滞納以前に高額の保険料が壁となり、国保に加入しない「本当の無保険」の家庭がある。
  国保加入を前提にした法改正には、すべての子どもを救いきれていない落とし穴が残っている。
  子どもの無保険問題に取り組む大阪社会保障推進協議会(大阪社保協)によると、金銭的事情で保険証の取得が念頭になかったり、保険申請の仕方がわからなかったりする保護者もいる。
  だが、厚生労働省は「基本的に何の保険にも入っていない人はいない。
  加入手続きをするのが大前提」と、国民皆保険を強調し、無保険者の実態を調査していない。
  大阪社保協の調査(2012年)によると、所得200万円の40歳代夫婦と未成年の子ども2人の4人世帯の場合、大阪市内の自治体の平均国保料は約41万円。
  高いところだと、守口市で約50万円だ。
  寺内順子事務局長は、「ご飯を食べないで保険料を払え、というのは絶対おかしい。親の事情がどうであれ、子どもは社会で守られなくてはならない。子どもに限っては未加入でも国保に入っているとみなすなど、医療費負担を減らす仕組みを作るべきだ」と指摘する。

  ◆毎年約1千人の子どもがかかる細菌性髄膜炎のうち、肺炎球菌が原因の場合は約7%が死亡し、約4割で手足のまひや知的障害が残る。
  この細菌性髄膜炎を防ぐ予防接種を受けた割合は、被用者保険91%、国保9%(日本外来小児科学会での高崎中央病院の鈴木隆院長の報告。2010年4~7月の調査。同院での予防接種の自己負担は5,250円から6,300円)

  ◆短期証が、子どもの健康格差を根本的に解決してくれるわけではない。
  和歌山市の生協こども診療所長の佐藤洋一医師は、2012年4~6月の間に、同診療所で受診歴があり、ワクチン接種した就学前の子どもを対象に、麻疹・風疹混合ワクチンの接種状況を調べた。
  通常の国保と社保の保険証を持っている場合、どちらも40~50%が接種していた。
  しかし、短期証の場合0%。

  ◆インフルエンザが流行していた時期、クラスの子が3日間学校に来なかった。
  心配になって家に電話したら、父親は「インフルエンザになっても病院に行くお金がないから休ませる」(高知県内の小学校の男性教諭)

  ――以上は、中塚久美子著『貧困のなかでおとなになる』(かもがわ出版)に書かれている事例などの一部抜き書きです。

  こうした子どもの貧困は決して特殊なケースではありません。
  日本の子どもの6人に1人が貧困状態に置かれ、「日本の子どもの貧困は323万人に上り、昨年1年間で1,183人もの小中学生が行方不明とされている」 のです。
  すべての先進諸国の貧困の子どもたちの総数が3,400万人で、なんと、先進諸国の貧困の子どもの約10人にひとりが日本の子どもなのです。

  そして、「日本のひとり親世帯の貧困は世界最悪、生活保護受給は世界最小、子どもの貧困を生み出す日本政府」 は、「はじめから子どもの芽を摘み貧困連鎖加速させる生活保護改悪-子どもの貧困ひろげる世界最悪の日本政府」 であり、有力大学に合格できるのは、「幼少期からの受験準備も含めて、入学するのに多額の費用を要する学校」で学べる子どもがほとんどで、「極限の不平等状態に近接しています」。

  こうした結果、下のグラフにあるように、就活生の半数以上は、日本社会はいざという時に何もしてくれず、やり直しがきかい社会で、正直者がバカを見て、あまり希望を持てない社会だと感じているということです。

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  そして、OECD(経済開発協力機構)加盟25カ国を対象に行われた15歳の意識調査においては、日本の子どもが29.8%と最も多く「孤独を感じる」と回答。
  以下、アイスランド10.3%、フランス6.4%、イギリス5.4%と続いていますが、日本は突出しているということです。

  また、下のグラフは昨夜のNHKニュースで放送されたものです。
  総務省の推計によると、4月1日現在の15歳未満の子どもの数は、去年に比べ15万人少ない1,649万人で、32年連続で減少。
  総人口に占める子どもの割合も、去年を0.1ポイント下回って12.9%となり、39年連続して低下。
  最も大きく減った福島県と大阪府は前の年より1万1千人少なくなっています。
  命を奪う原発と橋下維新の会の新自由主義及び教育統制などでは、子どもを育てることが困難になっているというあらわれではないでしょうか。

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(引用終わり)

                坂本  誠   

2013年3月 1日 (金)

二千九百八十: OPPT世界でのトラブル解決方法の2

トラブル未然防止方法の2

ずっと、OPPT世界の話題が続きます。
OPPT世界で考えられる問題の解決方法を書いてみたいと思います。
ルールの少ないOPPT世界です。

日本でもある登校拒否について、考えてみましょう。

2012年12月25日を持って、日本国憲法の効力が失われました。

ですので、日本国憲法の中で定められていた義務教育制度も失効しました。

今まで、学校に、いじめっ子などがいて、登校拒否を続ける子供もいたかもしれません。

学校に行くのが苦しくて仕方なかった君!
もう、学校に行かなくていいよ!

義務教育制度も無くなったから、学校に行く必要も無いよ。
勉強したかったら、図書館で勉強すればいいし、創造主の価値資産センター(CVAC)というところで、勉強をしたければ、すればいいんだから(まだCVACが出来てないけど)。

まず、その「学校」って言う感じのものは無くなってしまったんだから。
だから、学校の先生が、君に「学校に来なさい」と言っても、「いやです」と言って、強く断ったら、それでお終いだから。
(ちなみに、その学校の先生は、ちょっと、エージェントと呼ばれる感じのものだけど)

また、お父さんやお母さんが、「学校に来なさい」と言っても、「いやです」と言って、強く断ったら、それでお終いだから。
そして、ずっと、いじめられない時間をずっと過ごせたら、また、目標を見つけることが出来るから。
そして、その新しい目標を見つけたら、また、すがすがしい気持ちで、人生を歩むことが出来るから。

                坂本  誠   

2013年1月13日 (日)

二千八百三十一: 塾について

塾について考える機会がありました。

学校以外の時間に学習を学ぶ、あの塾ですね。
あの塾に行って、本当に、生徒達の学習意欲が高まったり、あるいは、成績が上がるのかどうか、私は疑問に感じます。

確かに、本当に塾に行って、「嬉しい!  楽しい!」という学生もいるかもしれません。
それは、個々の生徒に聞く意外に手は無いのですが、そのような、アンケート調査自体も、あまり意味が無いかもしれません。

「本当に、塾があれば、特定の生徒の学習成績が上がるのか」という疑問を感じた方が良いかもしれません。

仮に、塾に行って、成績アップした学生がいると仮定しましょう。
そして、次に、その学生に、その塾を辞めさせてみます。
そして、その学生の成績が下がったとします。
そうなると、その学生は、塾のおかげで、成績がアップしただけであって、本当の意味での、学力アップにはつながらなかったし、また、「その学生の学習意欲を高めた」とも言わないかもしれません。

また、仮に、「勉強が嫌いだ。塾が嫌いだ」と心の中で思っている学生がいると仮定しましょう。
嫌々ながら、無理に塾に行かせても、その学生は、心の奥底で、「勉強なんて嫌いだ」と、思っているから、進学などをした際に、成績が下がるかもしれません。
この場合、塾というものが、足の怪我をした後に使用する松葉づえのような形になるからです。

結局、本当の意味で、「学ぶ」ということを好きにもなれなかった上に、「塾を辞めた際に、成績が下がった」となれば、その塾に行かせた教育費用も無駄になったと言えるでしょう。

これはその学生のやる気を奪ったばかりか、時間までも失われています。

もちろん、「私は本当に塾に行くのが楽しい!」という人は別です。
塾に行くのが楽しいのですから、それは、本人の自由意思により、塾に行くべきでしょう。

                坂本  誠

2012年3月14日 (水)

千七百二十七: 明鏡止水について

こんにちわ。

「明鏡止水(めいきょうしすい)」という言葉を、岩波書店の広辞苑で引いてみると、

    「邪念がなく、静かに澄んだ心境」

と説明されてあります。
この語源の由来は「くもりのない鏡と静かな水との意から」とあります。
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よく、寺の中のお坊さんが、座禅をして、心静かに瞑想している姿を思い浮かべます。
あのような、お坊さんの姿を見ると、私達はどこか、尊敬するでしょう。

暑い日も、寒い日も、その暑さや寒さをものともせずに、瞑想をするお坊さんに対して、私は不思議な尊敬の感情を持ってしまいます。
よく、お坊さんは、説教とかをしますが、この座禅を中心にしているお坊さんは、あまり説教をしている光景を見たことがありません。

テレビの画像などで、暑い日などに、座禅を組んでいるお坊さんが、汗を流しながらも、ひたすら瞑想に集中しています。
寒い日も同様でしょう。
お坊さんは何も語りませんが、その光景自体が、私達をして、

    「心を清めるとはどういうことか?」
   
を、教えてくださっているように感じるのです。

確かに、お坊さんの肉体自体は、暑さや寒さを感じているかもしれません。
しかし、その心は明鏡止水でしょう。

少々の出来事があっても、心を動かさないでいるのです。

私達も、この「明鏡止水」の心境を学び、また、実践したいものですね。Img7d938b464fe5

                        
                        
                坂本  誠                   

2012年2月25日 (土)

千六百四十一: 教育について

こんにちわ。

教育について考える機会がありました。
昨今のメディアで報道されていることに、日本の生徒の学力不足が指摘されているようです。

学校の教師の方々は、長い年月、生徒を見ているでしょう。
そして、自発的に学習に取り組む生徒は、自ら勉強していくので、そういう生徒に対しては教師はあまり心配することは無いでしょう。
しかし、また、ある生徒を見ると、あまり自発的に学習しようとしていない生徒もいるのに気が付くでしょう。
学校の教師は、その生徒の方の学力を心配するでしょう。

ですから、私が考えますに、

    「生徒の学習意欲を増すにはどうしたら良いのか?」
   
が、これが問題の本質ではないかと思うのです。
学習意欲の強い生徒は自ら、何かを学ぼうとします。
しかし、これの反対のケースが問題だと思います。

しかし、その学校の教師も、大きな目から見たら、一人の生徒でしょう。
これは、どんな人間も、実は生徒であるからです。
なぜならば、永遠に人間は進歩する存在でもあるからです。
ですから、学校の先生にしても、「生徒を向上させよう」という教育の使命に対する意欲に差があるかと思います。

これは、学校の先生だけではなく、全ての人間は、永遠に学ぶ存在ですから、自分の課題とする何かについて、「どれだけ意欲を持つのか?」が問題になるかと思います。

意欲の開発。
または、生徒の意欲を向上させる教育の開発。
これが本当の問題だと私は思います。

私の意見を書いてみました。

                坂本  誠

2012年1月 9日 (月)

千四百三十三: いじめについて

こんにちわ。

学校の中で、いじめというものがいまだに起きているかもしれません。
例えば、ちょっと変わった子供が、他の何人からか、いじめられているかもしれません。
その「変わった子供である」という理由が本当に、いじめの理由となるでしょう。

その変わった子供というのは、様々なパターンがあると思います。
爪を噛む癖が人より多いとか。
本ばかりを読んでいるとか。
ないしは、人とあまり付き合わず、孤独を好むタイプとか。
あるいは、明るく無く、静けさを好むタイプとか。
あるいは、ちょっとだけ、衣服が汚れている子供とか。
それらのパターンを挙げていくとキリが無いかと思います。

しかし、それら、上の理由によって、本当にそれらの子供がいじめられる理由になるのでしょうか。
ちょっと変わっているからといって、その子がいじめられる理由になるのでしょうか。

この場合だと、いじめている子供の方が間違っていると、大人の方でもわかるかと思います。
ちょっと変わっている何かを持っているからと言って、その子供をいじめる理由にはならないからです。
様々な人が様々な個性を持つので、お互いの違いを素晴らしいものと認め合い、より良い方向に友愛を深めるべきだからです。

ですから、ちょっと変わった子供であるからと言って、その理由を持って、いじめる理由にはならない筈です。
お互いに様々な個性があるからこそ、この世は素晴らしいのだ、と考え直してはどうでしょう。

もし、学校の中で、全く似たような学生ばかりだと、そちらの方が素晴らしいものを感じないかと私は思います。
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また、何人かのグループが惰性的に、ある特定の子供をいじめている場合もあるかと思います。
この場合は、すでに、その特定の子供をいじめる理由そのものが、そのグループの子供たちには消えていることに気が付きます。
つまり、ただの惰性である特定の子供をいじめているかと思われます。
つまり、理由の無い状態で、その子供をいじめている状態かと思われます。
その場合は、そのいじめる側のグループの方に、明らかに、ネガティブな心があるかと思われます。
また、惰性的に、ある子供をいじめようとしていますから、まるで悪い風邪が校舎内で流行っている状態になっているかと思います。
そして、最初の風邪の原因さえも、もうわからず、ただ、そのいじめがずっとやまない風邪のように校舎内に蔓延しているケースもあるかと思います。

ジェームズ・ディーンの『理由無き反抗』という映画がありました。
上のように、もし、学校のどこかで、ある、いじめる側のグループの一人が、「これは理由無きいじめだ」と気が付いたら、それは自らの心が黒く汚れている、つまり、悪の心かと思われますので、

    「私こそ、悪人であったのだ」

と、考えて、いじめをやめるか、いじめる側のそのグループから外れることをお勧めします。
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さらりとした気持ちで以下の内容を書いておきます。
以下のものもいじめの原因の一つです。

子供の方々は意外にわかりにくいのですが、子供でも心がつるつるピカピカに磨かれた人もいます。
で、普通の私達にはわかりづらいのですが、そういう人は、世間的な感じで言うと後光やオーラが強い状態です。

で、普通の私達がそのような人に近づきますと、そのような人の発する光によって、こちら側の心の汚れがピックアップされて、映し出されるのですね。
結果、心の汚れを映し出された側の人は、自分の心の汚れが見えてしまうので、苦しくて、たまりません。
つまり、その自分の心の汚れた部分が暴れ出し、その結果、無意識的に、その心の磨かれた子供をいじめてしまう、という例があります。
いじめる子供にとっては、自分の心の汚れた部分を隠していたいわけですね
そして、いじめている子供にとっては、「なぜ、自分はこの人間をいじめたいのかよくわからないけれど、変にいじめてしまう」という例があります。

こんな場合は、くつろいだ気持ちで、素直に心が磨かれた人と握手をしたら良いと思います。
握手をすると、まず、安心感が湧いたり、その人からエネルギーをもらえて、いじめたい人の心が落ち着きます。
そして、いじめたい子供の心も晴れやかになり、安心感を得ます。
結果、いじめもおさまります。
その後に、自分の心の成長に励むべきかと思います。

子供の世界でもそうですから、当然、大人の世界でもあるわけです。
そんな時は、大人でも握手を求めても良いと思います。
現に私もそうします。

以前『千四百三十:握手とハグについて』も書きましたけど、この点でも、私は握手とハグをお勧めします。
しかし、会社の中の階級や何かのシステム上での役職がこの心の内部のオーラに比例しているかというと、全くそうではないです。
役職が上であればあるほど、そのオーラの光の量が上とは限りません。
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しかし、その他にもいじめの原因なりはあるかと思いますので、それは気付いた時に、また書きたいと思います。
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この段落は『七十五:理由なき悪』の続編みたいなものです。
その『七十五:理由なき悪』は、ちょっと古い文章となっているのですが(2009年2月23日)、それも合わせて参照してくださると嬉しく感じます。
現在(2012/1/9)の時点と2009年ぐらいからの私の成長の比較も出来ると思います。

                坂本  誠

2012年1月 4日 (水)

千四百二十六: セミナー参加_No.4

こんばんわ。

千三百九十二:セミナーの窓』の続きです。

新春、新年の集まりがあり、参加してきました。
雪のちらつく中でしたが、心を許せる仲間と集まれて、新年の祝いをして、お互い、この年が良い年であるように祈りました。
寒い中でしたが、集まりの終わった後には小雪が舞ってはいたものの、陽が射していました。
お互い、良い年であるように祈ると、どことなく笑顔が出てくるものです。
みんなで笑顔の火を顔にも心にも灯してきました。

確かに時代の流れから言って、今年も何かとあるように感じるのですが、だからこそ、人との、より深い絆が何よりも求められるのかもしれません。

ですから、「新年の集まり」と同時に、団結を深めた集いだったと言えるでしょう。

                坂本  誠

2011年12月14日 (水)

千三百九十二: セミナーの窓

千三百七十二:セミナー参加_No.3』の続きです。
私の行くセミナーで、以前、お話ししたことですが、屏風のような大きな窓があります。
それとは違う場所に、これまた大きな窓があります。

今回、お話しするその窓はすりガラスなのです。
「すりガラス」というのは、半透明ですね。
ガラスの上に様々な幾何学模様が施されて、向こう側が見えないようになっているのです。

    「なんだ、たいした話題じゃ無いじゃないですか、坂本誠さん」

と、読者の方は言われるかもしれません。
ところがですね、このすりガラスというのは、結構、美しい模様が彫られてあるものです。
最近は、「すりガラスなんて珍しいな」と思っていたのですが、様々な模様を見ると、すりガラスも見直してしまいます。
窓に何らかの事情のために彫りを施されるのですが、いまだに、このすりガラスを作る職人の方は、自分達の作る「すりガラス」に誇りを持っているかと思います。

私の見る、そのすりガラスに光が当たると、三角形とか円形の形が彫られているからでしょうか。
光の反射によって、ところどころ、紫が見えたり、黄色が見えたり、赤っぽい色が見えたりするのですね。
まるで、見ていてステンドグラスみたいでした。
やはり、光の反射と部屋の中の家具の色の反映等によって、そのすりガラスがそのような色を発するのでしょうね。

他のすりガラスを見ても、同じような色が見受けられるかもしれません。
現在でも、トイレとかに小さなすりガラスを入れられるているのを見たことがあります。
しかし、トイレのものは小さくて、なかなかそのような光の反射具合がわかりづらいかと思います。

昔は意外にすりガラスが多かったと思うのです。
ですから、そのガラスに光線を当てて、背後に何かの色をした家具を置いてみると、そのすりガラス自体が様々な色を発したかと覚えています。

現在では、すりガラスが減ったものの、このような「ハッ」とする発見もあるので、すりガラスに込められた価値にも素晴らしいものがあるかと思います。

                坂本  誠

2011年11月25日 (金)

千三百七十二: セミナー参加_No.3

こんばんわ。

私のセミナー参加ものの一つです。
九百三十八:セミナーのカラオケ』の続きです。

今は晩秋です。
屏風のような窓の外にも、「からっ風」が吹いています。
しかし、木々の緑の色は褪せていません。
それよりも、その「からっ風」が緑の木々に当たる光景に秋の趣があります。
また、秋の夕陽がその木々に当たる光景も美しいものがあります。
「からっ風」と夕陽が一つのもののように見えます。
秋の夕陽と「からっ風」とそれを受ける木々は一つのミックスと考えられます。

夏ならば、深い緑の木々と蝉の声と小川の音が、一つのミックスと言えるでしょう。
真冬には、緑の木々とそれにかかっているわずかの雪と、曇り空、そしてロウソクのようなひとすじの太陽の光がミックスと言えるでしょうか。

窓の外の春夏秋冬。
その美しさを感じるのも、大事なことかと思います。

                坂本  誠

2011年8月 1日 (月)

千百八十八: 学習について_No.6

こんばんわ。

八百七十:学習について_No.5』の続きです。
今、ある本を読んで学習しています。
学習していて、気が付くことは、やはり、「学びには終わりが無いなあ」ということです。

何かの究極の技術Aというものがあって、それを学び終えたとしましょう。
すると、他にも当然、幾つかBとかCとかの技術があるでしょうから、AとBとCを足し合わせたら、今度は、その足し合わせたものが、新たな究極の技術となるわけです。
そして、その新たな究極の技術に次々と技術が重ねられてゆくから、本当の意味で「究極の技術」というものは存在しない。
そのように考えると、「究極の技術とは、無限に向上し続ける特徴を備えている」と考えられるでしょう。
どこか果てしの無い旅を思い起こします。Photo

               
                坂本  誠

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