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2013年4月 5日 (金)

三千九十二: 幸せとエッセイ

こんばんわ。

昨日、私は、『三千九十:許しについて』というエッセイを書きました。

「人間は許す存在だ」と書きますと、どうしても、人は、弱くて、軟弱な存在のように感じないでしょうか。
しかし、軟弱な人間であっても、良くないことは、多くの人も感じるところだと思います。
なぜならば、人は雄々しくも、空を飛ぶばかりの、勇気を持った存在でないといけないと、私は思うからです。

私が高校1年生の頃に、本屋を歩いていて、ふと、目にした本を購入しました。
それは、岩波書店の「エピクロスの園」(アナトール・フランス  著、大塚幸男  訳)です。
1894年11月7日に初版が出されています。

この邦訳版は、今でも、私の手元にあります。
実に様々な方面から、私達の世界を見て、エッセイにしているのです。
高校生の当時の私は、この本を繰り返し読んで、胸を熱くしたものでした。
つまり、色々と学びました。

そのエッセイ集の内容に、人は、勇気なり、熱い何かを感じるかもしれません。
以下に、その引用をご紹介します。
『科学的真理とモラル』と『われらが人生の園』という二つの断章をご紹介します。
人が何かを感じ取ってくだされば、幸いです。

        『科学的真理とモラル
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科学に何らかのモラルを求めることは、残酷な当てはずれに陥ることである。
三百年前には、地球は天地万物の中心であると信じられていた。
われわれは今日では、地球は太陽の凝結した一滴にすぎないことを知っている。
                    ;
                    (中略)
                    ;
しかしわれわれのモラルはそのような驚異的発見の数々によってどんな点で変わったであろうか?
母親たちはそのために自分の小さな子供たちをこれまで以上に可愛がったり、これほどまでに可愛がらなかったりするようになったであろうか?
われわれはそのために女の美をこれまで以上に感じたり、これほどまでには感じなかったりするようになっているであろうか?
心臓はそのために英雄たちの胸の中でこれまでとはちがった具合に高鳴るであろうか?
いや!  いや!
地球が大きかろうと小さかろうと、そんなことは人間にとってはどうでもいいことだ。
人がそこで苦しみ、そこで愛しさえすれば、地球は充分に大きい。
苦悩と愛、これこそが地球の汲めども尽きぬ美しさの切っても切り離せぬ二つの源泉である。
苦悩!
これはその価値を正しく認められないでいる何という聖なるものであろうか!
われわれの裡にある一切のよいもの、人生に価値を与える一切のものは苦悩のたまものなのである。
憐れみも、勇気も、苦悩のたまものなのである。
徳という徳はすべてこれ苦悩のたまものなのである。
地球はもろもろの世界という無限の砂漠の中の一粒の砂にすぎない。
しかし、人生が苦しむのは地球においてだけだとすれば、地球は世界の他のすべてのものよりも大きい。
いや、わたくしは何をいっているのか?
地球は一切であり、他は無である。
                    ;
                    (中略)
                    ;
わたくしの弱さはわたくしにとって大切なのだ。
わたくしはわたくしの不完全さに執着する。
それがわたくしの存在理由なのだ。

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        『われらが人生の園
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「苦痛」をゆるしてやろうではないか、そしてわれわれがこの人生で所有している幸福よりも大きな幸福を想像することは不可能であることを銘記(めいき)しようではないか。
あんなにも美しくあんなにも苦く、あんなにも悪くあんなにも善く、理想的であると同時に現実的なこの人生は、あらゆるものを蔵していて、ありとあらゆる対照を和解させるものなのだ。
ここにこそわれわれの庭園はある。
この庭園をこそ熱心に掘り起こさなければならない。

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(このエッセイ集「エピクロスの園」の中の、他の断章は、機会ある時に、ご紹介します。)

許し、慈しみ、勇気、雄々しさ。
対極にあるようなものを、総合的に、人生の中で、学んでいく私達は、どれほど、幸せな存在でしょうか。

時には、私達は悲しみや苦しみも経験はします。
しかし、それらを乗り越えて、自分にとって、何か得られるものがあったら、それは高い山の上から見る朝陽のようなものではないでしょうか。
ここで、もう一度、上に挙げた断章の『科学的真理とモラル』と『われらが人生の園』を読み返して頂くことをご期待します。

                坂本  誠  P4050151  

2013年4月 2日 (火)

三千八十三: 読書について

こんばんわ。

忙しい時間が終わり、自分を振り返る時間がありましたので、過去の文献を読んでいました。
また、「過去の文献を読む時」というのは、今いる位置に立ち止まって、過去を振り返り、自分の足跡を見る時でもあります。

今現在の文献を読むのも大事ですが、こんな時は、過去の文献を読むと、意外に、自分を第三者の目で見ることが出来るのに気が付きます。
それは、その文献を読んだ時の心と、現在の心とが違っているからです。
ですから、「時間のある時に、ちょっとだけ立ち止まって、『過去の文献を読む』時間というのも、必要なのだ」、と改めて、気が付く機会がありました。
こうなると、やはり、時間に余裕のある生活というのも、大事であることに気が付きます。

色々な作業で、没頭している時は、なかなか、自分を第三者の目で見ることが難しいものです。
ですから、現代社会でも、作業のために、凄くたくさんの量の時間を使うのでは無く、点検の時間とかも必要だと思います。
会社でも、自分達のプロジェクトが終わった時に、すぐに、次のものに取り掛かるのではなく、少しばかりの時間を取って、成果の確認とか、問題点とか、難点だった場所とか、次への課題をふまえて、新しいプロジェクトに入るのが良いとされています。

「点検の時間が惜しい」とか「点検のための時間を取るならば、それを取らずに、その時間を何かの生産や作業を前に進めるための時間に使いたい」と考える人も多いかもしれませんが、意外に、点検の時間は、とても大事な事に気が付きます。
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それと、ちょっとだけ、話題が反れますが、私も、日常生活で、自分の事を、「僕」と呼んでいたりします。
日常生活で、自分を表す時は、「僕」を使用することが多いです。

なので、このブログ『悲喜憐偉』でも、かなり前の記事を見ると、「僕」を使っている記事もあります。
しかし、一応、文章表現をしているので、文章中で自分を表現する時は、統一して、「私」を使うようにしています。
日本語は、自分を表す単語が多いです。
「私」、「僕」、「俺」、「わし」、「あたい」、「うぬ」、「せっしゃ」、「手前」とか、まだ、あるかも知れませんが、普通に日常を送る時には、時と場合によって、「私」を使ったり、「僕」も使ってもいます。

                坂本  誠   

2013年3月27日 (水)

三千六十九: お知らせ_No.131

(以下、書籍『あなたはどの星から来たのか?』より引用  ファルス著    ヒカルランド)
(第一刷  2012年9月30日)
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時を同じくして、幾度目かの大がかりな宇宙戦争もありました。
大別するとヒューマノイド型と、別宇宙(アナザーユニバース)から転生してきた非ヒューマノイド型との侵略戦争です。
この戦争においては、ヒューマノイド型はとても不利でした。
というのは、もともとヒューマノイド型は、非侵害・不可侵という思考システムで活動していたため、所有という概念も無く、ましてや戦闘や防御といった体制も持っていなかったのです。
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(引用終わり)

                坂本  誠   

2013年3月14日 (木)

三千二十五: お知らせ_No.126

(以下、書籍『あなたはどの星から来たのか?』より引用  ファルス著    ヒカルランド)

(第一刷発行日は2012年9月30日)

(筆者注:文中の太字の部分は、原本のまま。)
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というわけで、あなたがたの中にあるRコンプレックス部分の周波数を、まるごと認め、愛し、手放すことによって、その特性であった恐怖や混乱、支配、競争といった周波数帯と同調しなくなり、さらに高い周波数域である、愛と創造性に基づいた、高次のシステムと共振していくことが可能になることでしょう。
このことはいくら強調してもいいほどです。

ところでこの「網」は、直線時間軸でいえば、2000年前から縛りが強化されてしまったことを次元の解説(24P)でお伝えしましたね。
そう、キリストと呼ばれる高次の存在がやってきたその後からです。
彼は、銀河の中心である九次元からの使者であり、愛の錬金術を駆使して網をほどいてしまったのでした。
しかしながら、それに気づいた存在たちが、今までより強烈に電磁波制御を行いました。
制御するパルス波の主要な同期ビームには12:60のパルサーが使われました。
しかしながら、このビーム周期はもうそろそろ終焉を迎えつつあります。
それはまもなく突入するであろう太陽系の移行によって新しい銀河の周波数帯が再構築され、創造性の局面が変わるからです。

ビーム設定を企てた存在たち(私たちは愛情を込めて彼らをリジーと呼んでいますが)もそのことに気づき、彼らの高次存在たちはこの星を去りました。
そうでないと、存在そのものが消滅させられてしまう可能性があることがわかったからです。
けれどもそれを拒否し、この次元に刺激を与えながら、なおも影響を与えたいと願っている存在たちもいます。
その存在たちも、あなたがたと同じように"頑張って"います。

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(引用終わり)

                        
                        
                坂本  誠   

2013年3月13日 (水)

三千十七: お知らせ_No.123

(以下、書籍『あなたはどの星から来たのか?』より引用  ファルス著    ヒカルランド)
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●ニブル人アヌンナキ


太陽系惑星の12番目の星がニブル星で、3600年周期を持ち、シリウスと太陽の橋渡しをしています。
地球と大変縁の深い種で、旧約聖書やシュメールの神とは彼らのことです。
もとはプレアデスからの一集団が転生しましたが、次第にレプティリアン種とのハイブリッド化が進みました。
ニブル星の大気にシールドを張るべく、金の元素を求めて地球を訪れ、やがてガイア人と自らのDNAを混ぜて、現在の地球人を創造しました。
これが聖書でいうアダムとイブの創世神話のもとになりました。


現在の時空においても強い影響力を持っています。


感情体があまり発達せず、金属的な性質を持っています。


支配と隷属、競争と比較、嫉妬と執着、暴虐と混乱の周波数帯と関係があります。
            ;
            (中略)
            ;

トカゲ、蛇、恐竜と関係があります。
            ;
            (かなり大きな中略)
            ;
前回の突入時にこの星で起こったことは、レムリアおよびアトランティスと呼ばれる大陸の消滅でした。
太平洋にある大きな大陸だったレムリアの民たちは、環太平洋を中心に離散しました。
とりわけ、自我とテクニックによる文明のおぼれていた彼らに警告を発していた聖職者集団を中心とした民たちの一部が、大陸沈下時には、当時聖なる峰々だった日本に逃れ、再建の努力をしたという経緯があります。
けれども、だんだんとそうした文明の記憶が閉ざされていき、あなたたちは原始的になってしまいました。
そして、3600年周期で訪れるニブルの再来と共に、レムリアで培った叡智はほとんど忘れ去られ、ニブル文化的なヒエラルキー社会が構築されるようになっていきました。

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(引用終わり)

                坂本  誠            

2013年3月12日 (火)

三千十四: お知らせ_No.120

(以下、書籍『あなたはどの星から来たのか?』より引用  ファルス著    ヒカルランド)
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当初、銀河系の進化と成長を促す集合意識体が計画していたのは、地球を天の川銀河の情報センターとして活用することでした。
ですので、こぞってそれぞれの星系におけるDNAパターンを組み込んで、テラガイア星に生命種を着床させたのです。
            ;
            (中略)
            ;
そのひずみの間にスーッと入り込んだのが、非ヒューマノイド型の生命体(レプティリアン種、通称レプ種)の寝食です。
そうしてあなたがたは、徐々に能力を制限されていくようになり、やがて囚われと制限のある世界の住人となることを選んでしまいました。
それは主に電磁波によるコントロールシステムを使って行われました。
            ;
            (中略)
            ;
現時空から見た計時測によると、今から31万2000年前に、あなたがたの遺伝子の組み換えが行われたのです。
地球人による科学ではそれをミッシング・リンク(失われた輪)と呼んでいます。
その部位は脳幹にあります。
Rコンプレックスといわれる爬虫類脳の部分に、彼らの遺伝子コードが組み込まれていくことで、あなたたちは恐怖と不安、縄張り意識、支配と隷属、競争、嫉妬といった遺伝子コードが活性化されたのでした。
            ;
            (中略)
            ;
今まで、あなたたちが創り出したと思っている社会や思考システムのほとんどは、彼らによる思考の雛形が具現化したものです。
それは大変な影響力を持ちました。
まるで、家に屈強な父親が一人いて家族を管理しているかのようです。
そうです。
彼らはまさしく、あなたたちの父親役でもあったのです!
いつかは親と別れるときが来ます。

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(引用終わり)

                坂本  誠            

2013年2月21日 (木)

二千九百五十: 読書について

こんばんわ。

本屋に行くと、様々な本が並んでいます。
また、インターネット上の様々なサイトの上でも、様々な文章が掲載されていることに気が付きます。

そして、書き手の方にも様々な人がいます。
読み手の方にも様々な人がいます。
それほど多くの個性があります。
ですから、読み手の方としても、自分の心の琴線に爪弾く書き手の文章を選択しなければいけないことに気が付きます。

ですから、本屋に行っても、本棚に並んでいる全ての本の全ての著書の考えとマッチしないことが、よくあります。
別に、本になった文章でなくても良いです。
そのような文章も多いので。

ですから、本屋でなくても、インターネット上の文章についても同じことが言えます。
自分の心の琴線を爪弾く文章を読者自らが抽出することが大事だと思います。
時間に余裕のある時や、心に余裕のある時は、自分の心と合わない文章に触れるのも良いことかと思います。

また、同じ書き手でも、時には、勇敢な事を書いたり、何か他の事を書いたりするでしょう。
ですから、そのような時には、読み手の意図するものと外れたりすることもあるので、何かの文章を読む時には、読者自らの抽出と選別をすることが大事になってくると思います。

                坂本  誠   

2013年1月24日 (木)

二千八百六十二: 好きな文章を読み返す時

世の中の流れが早く感じる今日この頃です。

こんな時こそ、かえって、世間の情報から意図的に離れて、昔、自分の心を感動させた文章を読んでみるのも面白く感じます。
時間の無いような時に、自分の心を感動させるような文章を読み返すと、自らの心の中にやる気とか勇気が出て来るように人は感じると思うのです。

しかし、それは昔の文章とは限らないでしょう。
最近、読んで感動したような文章でも、繰り返し、読んでみると、さらに落ち着きを感じたりすると思います。

そのような時間は、まるで、そう、時が止まっているかのようです。

自分の周りの時の流れは速いのですが、感動するような文章を目の前にして、静かに、その文章を書いた人と対話している一時は、時が止まったかのようです。

そうですね、喩えて言えば、以下のような感じでしょうか。
自分の部屋の周囲には、激しい風が流れています。
しかし、自分の部屋の中に入ってみると、その部屋の外の風の流れを風音などで感じる事が出来るけれど、部屋の中にいれば、風の無い静止した空間の中にいます。
それと似ています。

時間にも、そのような空間と似た性質があるのだと感じてしまいます。

その静止した時間を味わうためにも、昔、自分の感動したような文章を読み返すのは、一興な事だと感じます。

さすがに、私もそのような文章は、パソコンから印刷して、ベッドの中で読み返したりします。
パソコンが無い時にでも、それらを読み返しておくと、私にとって、有意義な時間となります。Pa190151_2

                        
                坂本  誠   

2012年12月25日 (火)

二千七百六十九: 冬の読書

こんばんわ。

冬の読書というものは味わい深いものがあります。
一年の内で、もっとも夜の時間が長いので、夜に部屋の電気を灯して、読書をすることになります。

リラックスして、「賢者が語った」と考えられるような文章を読んでいると、心が洗われるものです。
そのような文章は、何度、読んでも味わい深く、また、読むたびに、さらに奥深さを感じていきます。

また、その証拠に、読むたびにその文章の下にアンダーラインを引いてしまいます。
また、そのような文章を読んでいると、私は以下の光景を思い浮かべます。
-----------------------------------
昔の世界を想像してください。
そこに荒くれ者の野武士がいたとしましょう。
彼は荒くれ者ですから、村で、いたずらばかりをしているわけです。
ところが、その村に、徳の高い僧侶が訪れます。
野武士は、その僧侶に、たわいもない、困った質問を与えたとしましょう。
そして、僧侶は落ち着いた口調で、野武士に返答します。

すると、その僧侶の返答は野武士にとって、あまりにも的を得た解答であったり、あるいは、野武士にとって、全ての人にとって、あまりにも納得のゆく返答なので、野武士はその僧侶に対する返答も思い浮かばず、また、当然、野武士が村でいたずらをする動機も失われるわけです。
そして、僧侶は、黙って、静かに、その村を後にするのです。

(実は、私がある味わいの深い文章を読んだ時、「私も野武士だな」と笑いました。)
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上のような出来事は、ひょっとしたら、本当に、昔の世界で、あったかもしれません。
また、現代の世界でもあるかもしれません。

この上の出来事というのは、現代で喩えたら、やはり、「名著に出会う」ということに似ているでしょう。
しかし、「名著に出会う」と言っても、これは千差万別であることがわかります。
例えば、私達でも、本屋の棚に行って、「名著」とされている本を買っても、本を読むその人間にとって、あまり面白くない本であったりする場合があります。
しかし、他のある人にっては、非常に面白く感じる場合もあります。
これが、その人にとってのいわゆる「名著」となるわけです。

ですから、人の嗜好によっても、いわゆる「名著」と呼ばれるものは変わるわけです。
例を挙げるならば、恋愛小説を好きな人が道徳関係の本を読んでも面白くないと感じる場合です。

各々の人の心の奥底に、にじみ出てくる衝動、あるいは、文面を読んでいて、その文面の向こうから精妙な波長を持ったエネルギーの渦を感じたりすれば、それが、その人にとって、本当に心に益のある本となるでしょう。

冬の読書についてのエッセイを書きました。

                坂本  誠   

2012年12月14日 (金)

二千七百四十九: エッセイについて_No.2

二千七百二十七:エッセイについて』の2段目です。

やはり、素晴らしいエッセイはあるものです。
まるで輝いているような感じがします。
そして、そのような文章を読むと、余韻(よいん)が深いですね。
「心に残る余韻」という意味での余韻ですね。

このような文章は、読んでいて、心の内部から暖かいものがやって来るような感じがします。
また、「心が綺麗に洗われた」という感じがします。
読後感もサッパリしますね。
そして、何度読んでも、その余韻が自分の心に何度でも木霊します。
また、実際に、そのような文章やエッセイを何度でも読んでしまいます。
私の中では、そのような余韻を以下のように感じてしまいます。
水に落とした石が、幾つもの円を描き、その円が岸にあたって、跳ね返り、何度も何度も、幾つもの円が重なり合っていくような気がします。

このような文章は、私だけではなく、多くの人々の心を潤し、そして、多くの人々の心の糧になると思います。

                坂本  誠   

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