序:

序:        Img7d92ca6fabe0

さて、このように時間が余ってしまいました。
様々にお返ししないといけない世間様に対して、居心地悪く感じてしまいます。
遊んで時間を潰したくとも、私の手から離れてしまった、あの人が私の元に帰ってくるわけでもありません、、、、
そこで仕方なく、現代の筆になるパソコンを握って、古の筆の人のように、何かを書いてみようかと思います。
しかし、パソコンを握れば、古の人たちは、私に良い知恵を貸してくれるだろうか?
しかし、現在の花形の媒体であるパソコンも1000年後の未来から、これを見れば、未来人から、「原始的な筆」と呼ばれるかと思います。
過去とは全く違う筆です、紙とは違い、液晶ディスプレイの上で人の目に入る文字ですが、そこに載せられている私の精神の匂いが漂って、私のまだ見もしない読者の心に何かを残し、震わすことを祈ります。

さて、この小さな書物を悲喜憐偉(ひきりんい)と呼びます。この書物の名の由来は、本書の「後書き」を見てください。
また、「憐」は音読みすると「レン」ですが、この違いについても、本書の「後書き」を見てください。

         坂本誠
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以降、2009年11月3日に加筆。

上の「序」は2008年4月ぐらいに作られています。

「序」の中に後書きを書いておくのも変だと思うのですが、タイトルの由来を聞かれたので、序の中に「後書き」を書いておくことにしました。
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後書き:   

『悲喜憐偉(ひきりんい)』の名の由来は、人の悲しさと喜びと憐れさと偉大さを表し表題としました。
また、「憐」の音読みは本来、「レン」ですが、「燐火の一点」等の意味を、表題の意味に持たせたかったので、ここに音読みの意味を破り、「憐」に「リン」と読ませました。

         坂本誠
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本来ならば、このエッセイ集を一冊の本として出したいために、この後書きを書いていませんでした。
また、読者に面白みを持っていただくため、謎を残していたと言うわけです。
その謎の公開を一番最後の「後書き」に持って来ていた訳です。

後書きをブログの方に書いていなかったら、タイトルの意味を聞かれました。
また、私としても、いつ死ぬかわからない身ですので、ここにこの『悲喜憐偉』の造語の意味を書いておくことにしました。

また、このエッセイ集の中でも文体や気持ち等がかなり違っています。
その理由は、一つには、このエッセイ集『悲喜憐偉』に出された文章は実は私の10代頃からのものもここに出しています。
つまり、20年以上も前の文章がここに出されています。

自分の机の引き出しの中の10年前、20年前の作文をちょっとしたことから発見して、再び、見直すと、誰でもが気恥ずかしくなるものです。

また、知的な文章を書く人でも、その人の残した多くの文章を見てみると、意外にほんのりした優しい文章を見出すことも出来ます。
また、勇ましい文章を書く人でも、その人の残した多くの文章を見てみると、意外に男女の愛で泣けてくる文章を書いていたりもします。

つまり、人は様々な側面を持ちます。
また、日によって、上司とケンカした日とか、恋人と将来の生活を語らいあった後とかでは、その時に書いた文章にかなりの違いが出ていることに気が付くはずです。

また、メインとして考えていることやサブとして考えていることも文章には表れます。

それを10年後、20年後に読み返すと、ほぼ全ての人は赤面するでしょう。

ですので、文体の統一等は実は出来ていません。
また、こちらの方が、実は作者としても読み返すのに、一興があって、このまま書き続けているのかもしれません。
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日本でも、結構、知られているエッセイのタイトルには以外に造語があるのに気付きます。
色々な説がありますが、その書かれた時点では意味があったのかも知れないし、ないしは、今、その意味が失われているのかもしれません。
多分、それらのエッセイが書かれた時点では、その筆者は案外、気楽に言葉を組み合わせたのかもしれません。
やはり日本語の美しさを捉えて、組み合わせたかったから、そうしたのかもしれません。

私もそのような心持を合わせて、タイトルを作りました。
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また、「憐」に「リン」と音読みしたことですが、現代の歌謡曲のタイトルや漫画のタイトルには意外と、真の言葉の意味から外れた当て字が多いのにも気付きます。
それをする理由には、一点目は、言葉を芸術的な観点から、捉えているかと思われます。
辞書的な観点から音読みを捉える事が出来るのと、芸術的な観点から音読みを捉えることも可能かと思うのです。
2000年ほど前の邪馬台国の女王、卑弥呼(ひみこ)は、その当時、(ピミカ)と発音されたそうです。
つまり、言葉は生き物で、流動していることがわかります。
私達の現在使っている日本語の発音でも、1000年後はかなり変化しているでしょう。
また、方言も各地に見受けられます。

二点目は、日本語は基本的には象形文字です。
その象形文字の、バックに閉じ込められている真の美しさを捉えたいという意味合いを持って、このブログのタイトルを決定しました。
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また、このエッセイ集には、最初の頃はちょっと頭を使ったものが多いかと思います。Img7d8453895fb
しかし、このエッセイ集の随所に、我が家の猫の話や美しいものを見た時の喜びや、風土を見た感想などや、その他、諸々の事も書かれていますので、このエッセイ集の全貌を見ないと、感想を出しにくいでしょう。
エッセイというもの自体は、やはり、時おり感じたこと、考えたことを自由気ままに書くというのが、エッセイの本質だからです。
また、ブログを日々書いている人も、似たような趣旨で書いているでしょう。
それと同じです。
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また、青雲の志みなぎる時の文章を読み返したり、幼少時代の文章を読み返したら、気恥ずかしくなる人が多いでしょうけど、人は一日の時間の内に、かなり、心の針が揺れ動いているのに気付くと思います。
例えば、普段、温和な人でも何かの拍子に殴られたら、怒るでしょう。
また、普段、病で塞ぎこんだ心持の人でも、ナースにあたたかい言葉をかけられたら、その時は、心に花が咲いていると言うものです。
つまり、一日の一瞬一瞬で、心の持ちようが変わっています。
1分前と1分後の心の状態が変わっている時もあります。
強いて言えば、一日の内に性格が変わっています。
これは誰でもそうでしょう。
ですから、一日の全ての事柄を日記に書いていたら、そこにはかなりの性格の変わりようが記載されているでしょう。

それと同じで、1年前の性格が自分の書いた文章に現れている事は、驚く事ではないでしょう。
また、人の性格は絵画や音楽を制作する際、その時の心の状態が作品に塗り込められています。
また、会社で上司と仕事のトラブルを抱えた後で、その人が仕事を始めたら、その人の仕事にミスが多かったりもします。

しかし、自分の性格が露出する事を恐れてばかりで何もしなかったら、その人は生まれてから死ぬまで、自分の部屋から一歩も出なかった方が良かった人になるかと思います。

だから、1年前の自分の心の持ちようを恐れて、何も表現しないとか、今現在の自分の心の状態を恐れて、何もしないと言うのは間違っているかと思います。
恐れずに進むべきでしょう。
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再び、この序に何かを書き加えることもあるでしょうが、それは、その時が来るのを待つことにします。Img7d93ef59d62c

         坂本誠

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