六百五十: 無神論について

こんばんわ。

私のブログ『悲喜憐偉』のだいぶ初期の頃に、私は「三十三:『神』と言う単語について」というエッセイを書きました。
だから、このブログ『悲喜憐偉』のだいぶ下に沈んでいるのですが、再び、同じようなことを書けるのもブログの良いところです。
また、最初の方ですから、私の本『悲喜憐偉』にも載せています。

無神論者の方は、文字通り、

    「神など無い。神など無い。神なんている筈が無い」

と言っているわけです。
だから、無神論だと。

だけど、その上のセリフの中に、「神、神、神」と3回も「神」という単語を使ってます。
つまり、その無神論者の方は、神を必死に忘れたいにも関わらず、何度も「神」という言葉を使ってしまうため、全く本人が忘れたい筈の肝心の神を忘れることが出来ない。
そのような矛盾に陥っていることに気付きます。

    「無神論だ。無神論だ。無神論だ」
   
と言い続ければ、言い続けるほど、何度もそこに「神」という単語を使うので、その無神論者の心に「神」という単語が焼き付き続けられるわけです。
「まあ、このような、ちょっとした矛盾めいたこともあるものだなあ」と私は思ってしまいます。
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仮に、「神という単語を忘れたい」という人がいるとしましょう。
そして、幾らか時間が経って、

    「私は『神』という単語を忘れることが出来た!」

と言った、その時点で、その人は「神」という単語を思い出すことになります。
だから、結局、人が「神」という単語を忘れることは、ちょっと不可能だろうなあ、って思います。
つまり、人は神の存在を忘れることが出来ないだろうなあ、って思います。
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まあ、でも、これも一つの考えですよ。
他の人の意見なり、多くの考えなりがあるでしょうから、それは、色々な人の色々な考えがあって、自由ですしね。
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あと、今まで、

    「神がいるならば、その存在の証拠を見せて欲しい」
   
と巷(ちまた)で、私は聞いたことがあります。
しかし、逆に、

    「神が存在しないならば、その存在しないという証明を見せて欲しい」

と尋ねますと、その質問を受けた方は、ちょっと苦しむのではないかと思います。

ひょっとしたら、神様は私達の前にずっと隠れているだけで、この世の終わりの日に私達に姿を現す可能性もあるわけですから。
何かの事が証明不能である事を証明するのは、実は難しいんです。

ここまで来たら、混乱する人もいるかもしれないので、ちょっと、考え込まない方が無難かもしれませんね。
久々にこの手の話だったので、ここまで書きました。
では、お休みなさい。

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追加です。
二百九十七:読書感想文_No.2』にも書いたのですが、くり返しになりますけど、もう一回書いておきます。
また、本『悲喜憐偉』にも載せてあります。

「神は死んだ」と述べられている文章があるのですが、私は以下の事を思うのです。
「神は死んだ」と言うからには、それを言うためには、まず、「神が確実に存在した」という証拠をその人は手に入れていないといけないでしょう。
存在しないものに死が訪れることは無いからです。
例えば、「大和太郎は死んだ」と言う人は、まずその大和太郎という人物が生存していたと言う確かな証拠を手に入れていないといけないからです。

しかし、どうも、私がその人の言ったり、書いたりした他の言葉をちょっと調べても、「神の存在を証明した」と言う文章が見当たりません。

         坂本 誠

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