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2011年10月

2011年10月30日 (日)

千三百三十六: 秋の雨

            秋の雨
            
            
    秋の
    そぼ降る雨は
    ピアノの音に似る。
   
    冷気の中を
    雨粒が
    森の中の葉を
    そっと  たたく。
   
    それ自体が
    まるで
    透(す)いた  ピアノの音(ね)のようだ。
   
    狭霧(さぎり)の中を
    舞い落ちる  葉が
    そのピアノの音と  絡み合い、
    私の心の中に
    静かに  落ちてゆく。
   
               
               
                坂本  誠

千三百三十五: 喜びについて

こんにちわ。

人は死ぬ時に、

    「これまで、私は喜びの多い人生だった」

と言える人が、最も幸せな人だと言えるかと思います。

確かに、生きている間、人との衝突や経済的な貧富や、何かを論じたとか、真に愛する人と巡り合えなかったとか、様々あるでしょう。
喜びの面も多いかもしれません。

しかし、様々な条件を外して、考えてみると、死ぬ直前に

    「自分自身は喜びが多かった」

と言える人が最高に幸福な人でしょう。
普段、私達は日常のことに、あくせくしているわけです。
その忙しさのために、つい、自分を振り返ることを忘れがちです。
ですから、時々、瞑想できるような場所に行ってみることをお勧めしたいです。
お寺とか神社とか森の中とか山の上でも良いでしょう。
そこで一人になって、じっと今までの自分と向き合うわけです。
今、あなたは世間の荒波から隔絶されています。
そして、世間で自分の持っている物をほとんど手放し、また、普段、自分の考えていることも置いてくるのです。

そうすると第三者の目で、自分自身を見ることが出来ると思います。
その状態で、どっぷりと自分自身を見るわけです。
「喜びも悲しみも自分にとって、全て、良い思い出になった」と感じる人は、死の直前に幸福を感じることが出来る人かもしれません。
喜びはそれなりに良い経験ですが、悲しみの経験も人間にとって必要でしょう。
また、悲しみの経験が全く無ければ、その人は喜びの経験を薄く感じているかと思います。
喜びの経験ばかりを感じていると、喜びばかりなので、やがて退屈してくるわけです。
ですから、悲しみの経験も、ある程度、必要かと思います。
ですから、瞑想できる場所は、一種、人生の外に出ているのと似ていると言えます。
いわば、死後の自分から、生前の自分を見つめている作業に似ていると言えるでしょう。

なので、たまに、瞑想出来る場所に行くことを私はお薦めします。
真の自分を把握するための良い時間となるからです。20101103105126

                坂本  誠

千三百三十四: 清掃作業について

おはようございます。

以前にも、幾つかお話ししていますが、海岸の清掃作業をしています。
頻度までは、事情があって、言わないつもりです。

海岸でペット・ボトルや空き缶やその他のゴミを拾うボランティアの作業です。
私の他にも、ボランティアの作業の仲間がいます。
確かに、「地元の海岸を綺麗にしよう」という心から、それをしています。

しかし、もう一つ気が付くことがあります。
地元の海岸でも、漁が行われています。
魚を取っているのですが、もし海岸が汚れてくると、次第に、魚の味も悪くなるのですね。
魚でないまでも、貝とか、海藻とか、その他、様々な魚介類があるのではないでしょうか。
それらの魚介類の味が落ちてくると、非常に漁師さんにとって、困る話なのですね。
当然、自分の取った魚介類の味が落ちてくるので、市場で売れ行きが悪くなります。
ですから、海の清潔を守れば、魚介類の味が良くなり、その利益が人間に返ってくるわけです。
当然、地元で取れた魚は遠隔地で取れた魚よりも安く、また、この状態だと新鮮な味を持っているわけです。

ですから、ゴミを拾うボランティアの作業と言っても、いつの日にか、やがて、自分の行いの益が自分に返ってくるわけです。
良い思いを持つと、良い行動を起こし、その行動が、やがて、自分にとって良い結果になる。
悪い思いを持つと、悪い行動を起こし、その行動が、やがて、自分にとって悪い結果になる。
仏教で言えば、善因善果、悪因悪果というところですが。

ですが、そのゴミを拾うボランティアの作業と言っても、最初から、海岸にゴミが無ければ、そのまま、美味しい魚を人々が食べれるわけです。
ですから、ゴミを拾うボランティア作業というのは、ちょっと地味で特殊な作業と言えるでしょう。
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また、私は健康増進について、「身体の内部を掃除(運動)した方が良いでしょう」と、よく書いています。
人間が運動すると、身体の内部の血液が綺麗になります。
ですから、肥満から来る糖尿病や高脂血症や高血圧を防げるわけです。

この地球も人体のようなものです。
地表や河川や海を汚い状態に保っていれば、魚とか鳥の肉とか野菜とか海藻にも、いつしか、そのゴミが回ってくるのですね。
「地球の大循環」と言って、小さな魚を大きな魚が食べて、その魚を鳥や人間が食べる。
そして、その鳥の死骸を魚が食べたりする。
その鳥を人間が食べることもあるでしょう。

ですから、私達の食べ物でも、地球サイズで大きく循環しているわけです。
いわば、地球の中で目に見えない血液が回っているようなものです。
その血液に人間の出したゴミ(不純物)が混ざっていると、人間で喩えるならば、やはり糖尿病や高脂血症や高血圧と呼ばれる状態になると言えるでしょう。
ですから、私達が不用意に山や川や海に捨てたゴミでも、いつの日にか巡り巡って、自分の口に返ってきて、自分の身体の内部を汚すかと思います。
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私達、人間はよく車を使います。
しかし、その車から二酸化炭素が排出されているでしょう。
二酸化炭素もゴミと言えます。
二酸化炭素を大量に吸い続けると、これも健康に良くないでしょう。
しかし、もっと大きな目から見たら、二酸化炭素が大気にばらまかれて、地球温暖化が起こり、その地球温暖化の結果が人間に返ってくるでしょう。
これも、「地球の大循環」と言えるでしょう。

ですから、車やその他のものから排出される二酸化炭素のゴミも、ちゃんと取らないといけないとわかるわけです。
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要は、ゴミの無い清潔な地球を保たないと、自分たちの健康を損なったり、あるいは、地球温暖化や大気汚染で、自分たちの健康を損なうわけです。
だから、地球の産業形態や一人一人の意識に、「私達はゴミを出してはいけない」と考えないといけないでしょう。

つまり、自分の行った行動は、いつの日にか、自分に返ってくるのですね。
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経済的なことに少しだけ、話が絡むのですが、資本主義や貨幣経済が、ある程度、これらの原因を作っていると思います。

だから、資本主義や貨幣経済は良くないと私は思います。
経済的なことになると、少し、話が横道に反れますので、それは、このブログ『悲喜憐偉』の『ビジネス・投資』のカテゴリーをご覧ください。
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要は、地球の上の全ての人が、「ゴミを出すまい」と思ったら、環境も汚染されません。
「環境」というのは、その環境に住む人間達も含みますから、つまり、人間自身も汚染されません。

ですから、私達はゴミの不法投棄などをしないように心がけないといけないと思います。20100823145312

                坂本  誠

2011年10月28日 (金)

千三百三十二: 快晴

               2011年10月27日
               
こんにちわ。

今日は素晴らしい秋の快晴です。
雲一つ無い秋晴れです。
この秋空を見た人は、心が落ち着くでしょう。
やはり、雨が降っている日よりも、晴れの日の方が心も気持ち良くなるものです。

しかし、考えてみると不思議です。
ほとんどの人が、晴れの日に爽快感を感じるかと思います。
雨の日に爽快感を感じる人は少ないかと思います。
雨の日に爽快感を感じる人も少しはいるかもしれません。
しかし、ほとんどの人は晴れの日に素晴らしさを感じるでしょう。

なぜ、晴れの日に人の心は爽快感を感じるのでしょうか?
これはちょっとした疑問だと思います。
日光に当たるのは身体に良いことでしょう。
しかし、日光と心の関係はどうなっているのでしょうか?
また、青空と心の関係はどうなっているのでしょうか?
日光というものは、身体の表面に当たるだけでなく、心の奥底まで照らしているのかもしれませんね。
また、空の青さも私達の目で見るだけでなく、その青い光が私達の心の奥底まで染み込んでいるのかもしれませんね。
だから、晴れの日に爽快感を感じるとか。

ちょうど、春先にも、こんな快晴の天気は多いものですが、ちょうど10月頃や11月頃の快晴は素晴らしいものがあります。
春の快晴は、黄砂などが混じって、すこしばかりその美しさを汚されてしまいます。
しかし、秋の快晴は黄砂に汚されることはありません。

私が秋の好きな理由もそこにあるのでしょう。
きっと。20101104112403

                坂本  誠

千三百六: 経済的な事

先日、出版された本に以下のものがあります。
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『SHARE<共有>からビジネスを生みだす新戦略』

        レイチェル・ボッツマン  著 
        ルー・ロジャース  著

        小林弘人  監修・解説
        関美和  訳
        NHK出版
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その中に、以下の例があります。
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    アメリカの半分の世帯(約5000万世帯)が電気ドリルを持っている。
    しかし、それらは、人間の一生の間に、一つの世帯で、合計して6分か13分しか使用されていない。
   
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だいたい、以上の例が紹介されてありました。
つまり、5000万個の電気ドリルが70年間の間に、一つの世帯で、たったの6分か13分しか使用されていないわけです。

上の本の宣伝が、比較的、最近に新聞に紹介されていたので、今でも、ご記憶の方もおられるかと思います。
やはり、「もったいない」と私は思うのです。
また、他の多くの人が、この報告を読んでも、やはり「もったいない」と思うのではないでしょうか。

上の本『SHARE』の中には、似たような例が多く紹介されているので、他の例を探し出してみるのも良いかと思われます。
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この電気ドリルの中にも、貴重な金属が使用されているのではないでしょうか。
いや、「貴重な金属」が問題なのではなく、物資そのものが節制の気持ちを持って、生産されていないことに気が付きます。

また、同書の中には、大変なゴミの量も紹介されていました。
そのゴミ自体も、地球の資源を大変に無駄にしている証拠です。

しかし、私が以前、書いたように、電気ドリルを作っている会社にしても、その他、人間の物資を作る様々な会社にしても、それらを生産して、多くの人に売り、お金を儲けて、納税したり、従業員の給与に宛てないと会社が潰れるわけです。

やはり、お金が悪いと言えるでしょう。
利潤追求の考えから行くと、電気ドリルでないまでも、他の必要物資もどんどん生産しないといけないわけであり、それらの資源が大量のゴミとなっている。
つまり、打ち捨てられている。
そして、地球の資源が枯渇してゆく。
やはり、「利潤追求の考え」、つまり、資本主義の考えが悪いと言えるでしょう。
「お金をどんどん儲けたい」という考えが、地球を食い潰そうとしていたわけです。
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仮に、上の電気ドリルがアメリカでそんなに余っているというならば、「先進国でない国」と呼ばれている国々に、それらの電気ドリルが配布されていたら、私達は、「アメリカでは電気ドリルは余っていない。有効に電気ドリルが生産されて、多くの人々に行きわたった」と言えるでしょう。
しかし、現実には、「先進国でない国」に、電気ドリルは行きわたっていない。
これも、お金の問題でしょう。
「『先進国でない国』に、電気ドリルを持って行って、売ろうとしても、アメリカは儲けないではないか」と、これが本当のところではないでしょうか。
つまり、ここでも、お金が邪魔をしているわけです。
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また、現実問題ですが、私達がお金で電気ドリルを買うことは簡単なことです。
しかし、その逆の、一般消費者が電気ドリルからお金を生むことは、結構、難しいことです。
一般消費者にしてみれば、

    お金       ---> 電気ドリル      (比較的、やさしい問題)
    電気ドリル ---> お金            (比較的、難しい問題)

でしょう。
なぜならば、1万円ぐらいで自分の手に入れた電気ドリルから、中古センターとか、リサイクル・センターで再び、1万円を入手するのは、難しい問題です。
中古センターとか、リサイクル・センターに、その電気ドリルを持っていったら、必ず、1万円以下の値段で取引されて、その具体的な値段はわかりませんが、せいぜい、7000円ぐらいで、その電気ドリルを換金されるのではないでしょうか。
つまり、一般消費者にとっては、損をする話なわけです。

また、リーマン・ショックを引き起こしたと言われるサブプライム・ローン問題にしても同じことが言えるでしょう。
あれは住宅ローンの問題でした。
今でも、アメリカには、あのサブプライム・ローン問題のための空き家が多いと聞いています。
つまり、私達がお金を使って家を作るのは簡単です。
しかし、その逆の、家からお金を作ることは難しい問題なのです。
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現実、空き家からお金を回収するためには、その空き家に人が住まないと話にならないでしょう。
しかも、いまだ、アメリカに多くの空き家があると聞いています。
それだけ、多くの資源がそれらの空き家に使用されたわけです。
つまり、多くの資源も無駄になった。
そして、それらの無駄になった多くの資源から、それに相当する額のお金を回収することは難しいことなのです。
上の電気ドリルのように。

「その中古の品から、新品と同様の額の金額を引き出せない」というのは、地球の昔からの慣習なのでしょう。
理由は、「中古だから」と、みんな思っているかもしれません。
「中古だから、傷が入っているに違いない」という昔からの考えが多くの人に残っているのでしょう。
ここが、また一つの資本主義の落とし穴だったかと思うのです。
その中古の品にしても、その中古の内部にあるレア・アース(希少金属)自体の価値はあまり変わらないわけです。
しかし、これまでの地球のその慣習的な考えにより、「中古とは新品よりも値段が下がるものだ」という習慣的な考えから、中古製品がどんどん廃棄されていた。
だから、どんどん、その新しい電気ドリルや新しい電気製品が作られ、新しい住宅が建てられていた。
そして、廃棄された電気ドリルやその他の電気製品とか、そのサブプライム・ローン問題で現在も空き家にされたままの家自体には、多くの資源が残されており、莫大な無駄が発生している。

しかも、特に空き家から、再び、お金を生み出すのは結構、難しい。
その空き家に新しく住む住人が出るのを待つしかないのがほとんどの手段でしょう。
しかも、その空き家になると、新築の家よりも値段が下がるので、不動産業者は困るでしょう。
そして、その空き家自体には、莫大な資源が投入されている。
家を作るものは木材だったり、コンクリートだったり、電気コードだったり、鉄だったり、あるいは人件費だったりしますが、空き家になると、それらが返ってくる見込みはあまり無い。
そして、あまり長期間、空き家であると、古くなるので解体しないといけない。
そして、今度は、その解体費用も必要になる。
そして、その解体された家の資源が、再びリサイクルされるかどうかもわからない。
しかも、その今までの慣習から行くと、リサイクルされる筈の資源は安くなるので、ますます、不動産業者にとっては苦しくなる。
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さらに問題だったのが、あのアメリカのサブプライム・ローンというローン・システム自体がほとんど、不良のものだったと聞いています。
どれだけ、不良の仕組みだったのかは、あまり私は知りません。
しかし、ローンはローンでしょう。
ローンというものは、つまり、赤字です。
つまり、最初から存在しないお金を使って、その家を建てるわけです。
存在しないお金を使って家を建てる、、、?
だから、そのローンを提供した側の人とそのローンを使って家を建てて住む人がいるわけですが、その家に住む予定だった人が、途中で死ぬというケースもあるわけです。
その場合はどういう処置にするのかは、色々なローン・システムがありますから、色々と処置の仕方が違うのでしょう。
サブプライム・ローンの場合はどうだったかはわかりません。
そのローンを使用して家を建てる人なりが、途中で死んだり、あるいは不慮の交通事故で死んだり、その他、失職なりでローンを払えなくなるケースもあるでしょう。
しかし、家の建設工事自体は進んでいる。
じゃあ、その建設途中の家はどうなるのでしょう?
その場合は様々なローン・システムがありますから、様々な処置があるのでしょうけれど、「ローンというものは最初は存在しないお金」なのだから、不慮の事があったら払えないことになり、双方に痛手をこうむるわけです。
だから、私としては、多くの人に「ローンというものには手を出さない方がいいでしょう」とお勧めしたくあります。
なぜならば、上でも書いているように、「ローンというものは最初は存在しないお金」だからです。

そして、国債というものも、いわば、ローンなのでしょう。
その国債というものを発行して、ある人(銀行など)がその国債を買って、ある期日が来たら、国がその人にその国債分のお金を返す、と。
あるいは、国債に見合わせた分の利子の付いたお金をその人がいただける、と。
だから、ある国が債務不履行になれば、その国の国債を買った人、つまり銀行などが、その債務不履行になった国から、現物のお金(紙幣やコインなど)を頂けず、大変な苦境に立たされるのでしょう。
上の例で言えば、国がローンを払えなくなった人に相当しますね。
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だいたい、ほとんど多くの人が、数多い金融用語に対して、頭の痛くなる思いがしないでしょうか?
パソコン関係の用語だって、どんどんどんどん、パソコン用語が増えて来るから、あまりパソコン専門でない人だったら、その増え続けるパソコン用語に対して、苛立たしさを覚えた人はいないでしょうか?

それと同じ感覚で、金融界が多くの金融用語を生み出し、多くの人の頭を悩ませて、「金融界とは恐ろしく難しい世界で、一般庶民の立ち入れる世界ではないのだ」と、ごく少数の人が、一般大衆を金融界から閉め出している姿に見えないでしょうか。

多くの人にとって、お金は大事なものなのでしょう。

少数の人が、その大事なものに対して、物凄く難しい金融用語を大量に作り出して、多くの一般大衆の人々に対しては、お金の事を考えさせられないようにしているように見えます。
多くの一般大衆の人々から、その大量の難しい金融用語で金融界のからくりを隠し続けて、ほんの一握りの人が大量の金融を扱っているような仕組みにしているように、私には見えます。
だから、ほんのわずかな人々が富(お金)を握りしめれるような世界にしているのではないのでしょうか。
つまり、多くの一般大衆の人が、大量の難しい金融用語により、金融界を見えないようにさせられているように私には見えます。

そうなると、やはり、お金が格差を生み出します。
なぜならば、その状況だと、大量のお金の状態を、大量の金融用語を知っている人しか金融界の事がわからないからです。

ですから、この地球からお金は無い方が良いと私は思います。
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また、工場で物を生産していることに本当に喜びを感じている人もいるでしょう。
しかし、そういう人達が、本当にお金目当てでやっていると私には思えません。
職人と呼ばれる方々は、自分のメンツとプライドにかけて、自分の品を作っているでしょう。

ただ、多くの人が、生活上でお金が必要だからこそ、自分の作った物資に値段札を付けているかと思います。
だから、その意味で言えば、工業製品だけでなく、農業製品や、本や、音楽製品でも、必ず、値段札が付いていると思います。

と、言うのも、政府国家が税を納めさせるために、それらの製品に値段を付けさせていることがわかるのです。
そして、市場で売らせている。
そして、税を集めさせている。
だから、上で言う電気ドリルの例で言えば、アメリカでは幾らか知りませんが、その品を売りたい人は電気ドリルに、1万円の値段札を付けてもいいし、2万円の値段札を付けてもいいわけです。
自分が売りたい品には、幾らの値段だって付けていいわけです。
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私達のほとんどは、ガソリンスタンドに行くことがあるでしょう。
そのAというガソリンスタンドでは、ガソリンが140円で売られている時もある。
Bというガソリンスタンドでは、ガソリンが150円で売られている時もある。
私達はそれを見て、「同じガソリンなのに、なぜ、場所によって、値段が違うのだろう?」と不思議に思うことはないでしょうか?
その理由をガソリンスタンドに聞くと、「いや、うちは24時間営業だから」とか「いや、うちは従業員の給与を減らしてでも頑張るところだから」と、その他、様々な理由が返ってくるでしょう。
しかし、「同じガソリンなのに、なぜ、こんなに値段が違うのだろう」と私達は考えたことがないでしょうか。
また、以前、ガソリン価格の高騰もありました。
その原因を調べていくと、メディアで紹介されたことには、石油会社のトレーダーが自分が儲けるために、ガソリンの価格を上げたりしていました。

読者の方は、「お金というものは、このように不公平なものなのだ」と思わないでしょうか?
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仮に、この世の中から、お金が消えて、それでも、勤労の意志にみなぎる人が多い、と仮定しましょう。
すると、工場やその他の生産物に対して、ある程度の、制限をかけるようにしないと、地球の貴重な資源が枯渇するでしょう。

だから、今は、地球のあらゆる産業、経済に対する見直しの時期と言えるかもしれません。
だから、ここで、本当に個々の人にとって、一番大事になってくることは、

    「私は本当に、心の奥底から、何をしたいのか?  私は何を持って、多くの人のために行動できるのか?」 <---●
   
ということになるでしょう。
つまり、上の●の問いは、既にお金によって、はかられているものではありません。
強いて言えば、多くの人への愛によって、はかられていると言えるでしょう。
なぜならば、上の●の問い、つまり、「多くの人のために行動できるのか?」という言葉は、「多くの人をいかに愛するか?」という言葉に言い換えられるからです。
だから、現代の地球は、産業、経済に対する見直しの時期だけではなく、人の心の在り方、つまり、心の学習についても、見直しの時期と言えるかもしれません。
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中国の2500年前の思想家、墨子は「兼愛」という思想を説きました。
その要約は
    『「天下の利益」は平等思想から生まれ、「天下の損害」は差別から起こるという思想。全ての人に平等な愛をということである。』
だそうです。
        「墨子 - Wikipedeia」より引用。
       
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E5%AD%90
       

こうでなくては、ならないのではないでしょうか。
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私はそんなことを考えてみました。

               
               
                坂本  誠

千三百二十四: 安心感とお金について

五百十二:ある問題に対する考え』でも、似たようなことを書いているのですが、お金というものは、人を幸せにする道具では無いと思います。
なぜならば、お金持ちがいるとしましょう。
その「お金持ち」とは、幾らぐらいの金額を所有すれば、お金持ちと言われるようになるのかは、私は知りません。
しかし、そのお金持ちと呼ばれる人々は、少しでも、自分のお金が減れば、苦しく感じるでしょう。
例えば、1億円を所有していると仮定してみましょう。
10万円を使えば、もう、9990万円のお金です。
9ケタのお金から、8ケタのお金になっているわけです。
人間、減って嬉しいものは自分の体重ぐらいなもので、たいていの人は、あとの自分の所有物に対しては、増加する方向を願うからです。

だから、大きな会社(法人)同士でも、自分の会社の蔵のお金の額面の数が少しでも多い方が、彼等にとって安心する方向かと思います。
「会社の甍(いらか)が高い方が安心だ」という感覚でしょう。
また、そうでなければ、ライバル企業が怖く見えるわけです。
だから、お金持ちにとっても、会社という法人にしても、お金という道具が、その人を不幸にしているかと思います。

以下にドイツ人のショーペンハウアーという人の言葉を引用しておきます。
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    『だからすでに得た富を殖やそうとして、席の暖まる暇もないほどに忙しく、蟻のようにこつこつと、朝から晩まで骨を折っている人が実に多い』
   
    『金もちは何か計画が失敗すると、今までにもっている巨万の富にも慰(なぐさ)められない。[富は海水のようなもので、飲めば飲むほど喉が渇く、、、。]』

        『幸福について(--人生論--)』    ショーペンハウアー  橋本文夫  訳    新潮文庫
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つまり、このショーペンハウアーさんが言うには、「富は海水のようなもので、飲めば飲むほど喉が渇く」と書いてあります。
今までの資本主義は、このように、どんどん、富つまりお金を積み上げようとして、逆に破綻を起こしたり、また、その資本主義の在り方自体が地球の自然を壊そうとしているわけです。
実際、今の資本主義の社会を見ていて、「富は海水のようなもので、飲めば飲むほど喉が渇く」ように動いているように見えます。

だから、私が思うに、地球の人々は、自分で自分が不幸になるような「金融」というシステムを営々と自ら作り上げてきたように思うのです。
ですから、お金は安心感を生まないと私は思います。
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何かの映画で見た記憶があるのですが、「カネが無くちゃ、生きちゃいけねえよ」というセリフがあったように記憶しています。
つまり、そのようなシステムを人々が延々と長いこと作り上げてきたわけで、人々が自分で自分の首を絞めてしまうシステムを地球の上で作り上げてきたかと思うのです。

かと言って、私は旧ソ連などにあったような、共産主義がベースにあった社会主義も好みません。
なぜならば、社会主義が崩壊していった理由は幾つか挙げられるでしょうが、その代表的なものに、人々が怠惰な方向に陥っていきました。
だから、国のやりくりが上手くいかなくなりました。

ですから、ここから私が考えることは、私のお金の話にも多いですが、「人々が怠惰にならず勤労の美徳を持って働くこと。」
次に「節制の美徳を持って働くこと」をすれば、共産主義からも抜け出られるし、また、格差社会を生んだ資本主義からも脱却できるかと思います。

愛に溢れ、向上心を持ち、また、節制の美徳を持ち、つまり、人々の意識が一歩上がれば、今の地球の金融システムから一歩上のシステムが作れるだろうと思います。

                坂本  誠

千三百三十: 実践について

「実践」というものについて考える機会がありました。
この場合の「実践」とは、頭で考えたり、あるいは芸術活動や文章書きの行動では無い、何かの実践活動です。

私もそれなりに、やっていることはあります。
ただし、それをここに今、書くかどうかは、一身上の都合でためらわれるものもあります。
その私のやっていることをここに披露すると、それを他の誰かが読んで、「坂本  誠さんは、こういう人でしょう」と、他の人が私自身の生活を推測してもらいたくないからです。

ただ一つ言えることは、これと同じことは、他の多くの人にもあてはまることです。
他の多くの人も、かなり色んなことが出来ると思います。
たいていの人は「本職」と呼ばれるものを持っているでしょう。
しかし、それ以外にも、かなりの活動が出来ると思います。
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例えば、何かの店の店員さんを例に挙げてみます。
普段はその店の品物を売っているかもしれません。
しかし、家に帰ったら、剪定(せんてい)作業が得意かもしれません。
剪定作業とは家の樹木の手入れをする作業ですね。
ないしは日曜大工の上手い人もいるかもしれません。
あるいは料理を作るのが上手い人もいるかもしれません。

その他の例を挙げたら、キリがありません。
ですから、一番最初に挙げた何かの店の店員さんで、休日の日に隣の家の木の剪定作業をしてやったら、隣の家から、ご褒美をもらえるかもしれません。
仮に、その隣の家の人が農家だったとしましょう。
その隣の家のための剪定作業の御礼に、お米を30キログラムぐらい頂いた、とか。
これは、もちろん、ギフトに相当するものですから、間にお金が入っておらず、もちろん消費税もかからず、ものの交換も出来て、お互い喜び合った、と。
ちなみに、隣の家との親睦も深まった、と。

上の例の場合は、剪定作業でしたが、私が日曜大工の得意な人と考えてもいいでしょう。
私が日曜大工が得意で、隣の家の人の机を作ってあげたら、隣の家の人は料理を作るのがとても上手い人で、机を作ってもらった代わりに、その隣の家の人は超豪華な料理を作ってもらった、と。
もちろん、食材も、隣の家の人が負担してくれた、と。
ちなみに、隣の家との親睦も深まった、と。
こうなったら、私達の間で、次第にお金が必要無くなってくるかもしれません。

私は上の作業の例を幾つか挙げましたが、この他の例を考えるとかなりの量に上るでしょう。
つまり、例が幾つあるかわかりません。

そして、自分の出来ること、つまり、上の例で言ったら、剪定作業とか、日曜大工とか、料理とかが、目の飛び出る程の高級技術を持っていなくても良いかと思います。
なぜならば、本当の人間の分かち合いの心とか、心のこもった交流、おもてなしの心を持った交流は、そんなに人を驚かせるぐらいの高級技術を持って、相手に自分の贈り物をしなくても、出来るからです。
要は、どれだけ、その自分の提供しようとしているものに、自分の深いおもてなしの心をこめられるかにかかっていると思います。

「激しい修行が無ければ、深いおもてなしの心を自分の心の中に作り上げることは出来ない」というのは、これは、あるケースでは正しいかもしれませんが、あるケースでは間違っているかと思うからです。
「激しい修行が無ければ、深いおもてなしの心を作り上げることが出来ない」という段階は、その人の心にまだ若干、怠惰の心があるかと思います。
しかし、本当に深い愛の持ち主であるならば、自発的に、その自分の提供しようとしているものに対して真剣に取り組み、学習などをしますから、自然と、その愛情が自分の提供物にこもり、結局、深いおもてなしの心が、その提供物に入っているかと思います。
要は、自分の心の中の愛の度数を上げることにより、それらの深いおもてなしの心とか、良い技術が自分の提供物に込められるかと思います。
だから、この場合は、お客とは言わず、隣の家の隣人ですが、その隣人を喜ばすことになるかと思います。

確かに、現に料理を作るのが上手い人もいますが、その人が別段、有名ホテルのシェフでも無い人もいるわけです。
かえって、激しい修行というのは、スパルタ教育と言い換えれるでしょう。
その激しいスパルタ教育が本当に深い愛情のこもった、おもてなしの心を作り上げることが出来ると言えるでしょうか?

スパルタ教育は厳しくて激しい。
それは、ある一面では、愛の心から離れている。
その愛の心から離れているスパルタ教育が、本当に、人を喜ばす提供物を作り上げることが出来るのでしょうか?
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確かに、昨今の学校で、「ゆとりの教育をしよう」と過去、なっていたと記憶しています。
そしたら、学校の色々な生徒の人達の向学心が減っていったと記憶しています。
しかし、それも私が思うに、多くの生徒たちの胸の中の心の愛の度数が高ければ、自ら、学に励んだかと思います。

しかし、子供たちにそういう精神が出来上がらなかったのは、一面には、社会全般の方に責任があったかと思います。
社会全般を見ると、その社会全般の方が、ある程度、弱肉強食的な一面があるでしょう。
その他、様々な社会問題を子供達よりも大人たちの方が余計に多く抱えている。
そのような状況で、「子供たちにゆとりの教育を」というのは、これは一つの矛盾だったかと思います。
家庭内での暴力とか、離婚問題とか、激しい昇進戦争の中に大人たちの方がいる。
それは一種の争いの世界です。
そういう環境で、「子供たちに、ゆとりのある教育を」というのは、これは矛盾だったと思います。
なぜならば、大人たちの方に愛の心が無いのに、どうして、子供たちに愛の心が伝播されるでしょうか?

つまり、直さなければ、ならないのは、子供たちの教育の方では無く、大人たち、強いて言えば、社会全体の心、また、社会全体の傾向でしょう。
よく見てみれば、大人たちの世界の方で争いが多い。
そのような状況で、つまり、争いの多い大人たちの世界を子供たちが見て、子供たちの心に愛が育つでしょうか?

だから、私が思うに、社会全般の方に争いを止めて、社会全体に協調精神のある共同体を作らなければ、ゆとり教育というのは成功しなかったかと思います。
資本主義の社会とか、貨幣経済の世界で、本当に人々は心が豊かになったと言えるでしょうか?
その逆ではないでしょうか?
つまり、深い愛の心の状態とは反対の方向に人々は歩んでいた。
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確かに人々は、「愛と平和の世界を作ろう」とは言っている。
しかし、現実は、資本主義社会と貨幣経済の社会により、闘争の世界となっているでしょう。

「私達は愛を学ぶために生まれてきた」とも聞いています。
しかし、この世に生まれてきて、その逆を学ばされていたら、愛と平和の世界を実現できないでしょう。

もし、愛と平和を高め合う世界が出来たら、人々は自分の愛の心を向上させようとするでしょう。
なぜならば、周囲の人に奉仕しよう(周囲の人々を愛そう)と努力するため、色々な技術を自ら学ぼうとするからです。
そして、その学んだ技術を使って、上の例で言うならば、剪定作業や大工技術を学んで、より多くの人々に奉仕しようとするからです。

私が思うに、上のスパルタ教育ですか、過去、無理矢理、学問とか、技術とかを無理矢理、学ばされた人も多いのではないのでしょうか?
すると、その人々の心の中には、一種の社会に対する恨みみたいなものが残っていると思いますよ。
それが、なにかしら、争いの世界をどんどん作り上げている要因になっていると思います。
例えば、

    「俺(私)は『食っていくためには、これほどの努力が必要なのだ』、と過去、無理矢理、教え続けられた。この世は一種のサバイバルなのだ。だから、子供達にもサバイバル精神を植え付けないと生きていけないのだ」

という感じになっていたら、ますます、世の中にサバイバルの世界が出来ていくだけでしょう。
で、上のように考えている人は、どこかしら、心の中に一種のサバイバルの世界が出来ていると思います。
そして、争いの世界が増えていくだけでしょう。

ですから、私が思うに、まず、この世界を愛を基調とした世界に変えるべきであり、その「愛の心を向上させたい」と一人一人が願うことにより、学問の向上心なり、技術の向上心なりを育てた方が良いのではないかと考えます。
「愛の心を向上させたい」という原理は、これはもう、競争原理の社会ではありません。
しかし、この原理によって、人間社会の発達が可能となります。
なぜならば、「相手に奉仕したい」という愛の心がベースとなっていますから、さらに学問が積まれていくわけです。
「ライバル同士で競り合おう」という競争精神がベースとなっていて、積まれている学問とは別の形態です。

「実践について」と題して、書いていたら、ここまで書いていました。
               
               
                坂本  誠

千三百十六: 苦しみについて

おはようございます。

苦しみについて考える機会がありました。

と、言っても、このブログ『悲喜憐偉』の中でも、だいぶん、苦しみに関して書いているかと思います。
苦しみや悩みの無い人間はただの一人もいないでしょう。
誰でもが、苦しみと悩みを持っています。
だからと言って、「悲観主義になった方が良い」とは、私は思いません。

また、今現在でも、本当に生活上で、苦しみを一切持たない人がいると仮定して、その人を見て、私達が信用できるでしょうか?
いや、出来ないと思います。
完全に苦しみの無い人は、かえって誰からも認められないでしょう。
それはなぜかと言うと、苦しみというのも、人間の持つ一つの情操であり、これが欠如すると、「それは、ほぼ、人間の心ではないだろう」と誰もが思うからです。
確かに、希望のある方向で努力はしないといけないものの、そこに何らかの障壁があるものです。
私も思うのですが、確かに、良い方向に物事を考えていかないといけないでしょう。

しかし、現実の社会には、苦しみや悲しみが確かにあります。
ですから、私は、あまりにも楽天的にものを考えるのを好まない方です。
現実に危険というものはある。
その危険回避の努力を怠るべきではないからです。
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この前の日本の原子力事故だって、当局が「大丈夫だ、大丈夫だ、安全な方向に考えよう、安全な方向に考えよう」と、なっていたら、常日頃の安全対策もおろそかになっていたことが、私達、日本国民の多くにもわかってきました。

ですから、楽観主義ばかりでものを考えるべきではないと私は思います。
「楽観主義ばかりで色々と考えよう」というのは、ある意味で言えば、自分を甘やかしている方向につながるからです。
今現在の地球において、その方法はまだ片手落ちかと思います。
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だからと言って、悲観主義ばかりで考えると、自分の家の外に一歩出ると、歩けないぐらいの感じになるかと思います。
ですから、希望も持って生きないといけない。

私個人が地球を見るに、今現在の地球の状態だと、やはり、警戒的な感じで世間を生きていかないといけない割合と明るいな感じで世間を生きていかないといけない割合は五分と五分です。
私達の地球環境も激しい状態になり、色々と災害は起きていますが、それでも天候の良い日には感謝することが出来ます。
かえって、天候の悪い日が続くと、本当に、天候の良い日に感謝できるというものです。

しかし、地球の天候だけではなく、人為的な災害などを見ると、まだ、警戒的な要素を持っていないといけないと思うのです。
犯罪や汚職も多い。
それらに対して、完全に目をつぶるわけにもいかないからです。
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現実にどうすれば良いかと思うと、やはり、多くの人の人心を清める必要があると思います。

人の心が美しい状態で、そのような人々が増えれば、地上は素晴らしいものとなるからです。
しかし、それを阻害しているものがある。
やはり、今現在のその阻害の発端は、お金にあると思います。
格差の問題で、犯罪が起きたり、人々の心の中で不平等感が溜まっているから、騒動が起きているのでしょう?
私のお金に関する考えは、多くあるので、それらは『悲喜憐偉』のカテゴリーの「ビジネス・投資」を読んで下さい。

他の方も言われていますが、この地球は今までサバイバル・ゲームのような様相を呈してきたと思います。
地球の気象の問題はある程度仕方ないものですが、それを考えるよりも先に、「どうすれば、人心が清らかになるか」を考えた方が良いと思います。
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人心が清らかになるためには、確かに、美しいものを見たり、聞いたり、感じたりすることも大事かもしれません。
しかし、積極的に、マイナスの物を取り除いていく努力もしないといけないかと思います。
地球の上には人を殺害するための武器もあるのでしょう?
本当の意味で、武器の存在を許されていいかと言うと、これは間違っていると、私は思うのです。
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ですから、この辺もバランスが必要であり、良い方向、つまり、楽観主義的な物の見方をする時と、悲観的な物の見方の両面で、私達の周囲の世界を見て、それに取り組んでいかないといけないかと思います。

                坂本  誠

2011年10月25日 (火)

千三百二十九: 歩くこと(独白)

今夜、いつも走っているコースを、何気なしに歩いてみた。
どうして、途中で歩いてみたくなったのか、わからない。
ただ、ふっと歩いてみたくなった。

人は走るだけでは駄目なのかもしれない。
以前似たようなことを書いたのだけど、ゆっくり歩いて、美しい野の花を見て、心を動かすことも大事だ。
走っていたら、その美しい野の花をじっくりと見ることが出来ない。
もちろん、夜だから、道端の花は見えないけれど。

「急ぐ」ということだけが、大事ではないと思う。
ゆっくり、ゆったり、焦らずに進むことも大事ではないかと思った。Img7d91f57ad561
               
               
                坂本  誠

千三百二十八: 度忘れ(独白)

時々、パソコンを付けるには、付けるのだが、「何のために私はパソコンを付けたのか?」と、目的を度忘れしている時がある。
よくパソコンを付けるのだが、それはそれなりに目的があって、パソコンを付けている。
しかし、なぜ、目的を度忘れしているのだろう。
まるで、そのパソコンの中に自分の生活の目的の答えでも書いてあるかのような事を私は期待しているのかもしれない。

現在、インターネット上のニュース・メディアの数もおびただしい量だ。
また、その他、提供している情報の量も数え上げたら、どれほどあるかわからない。
だから、「それらを偶然に見たら、自分の生活に対するヒントが出ているのではないのか?」という期待でもあるのかもしれない。
しかし、そういう目的自体が、すでに曖昧で漠然としている。

だから、パソコンの電源を入れた時に、「私は一体なぜ、パソコンの電源を入れたんだ?」と目的を度忘れしているのかもしれない。
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よく似ていることがある。
それは本屋だ。
大きめの本屋に行くと、大量の本が置かれている。
そして、その中の本を手にとってみて、少しばかり、内容を読むうちにぐいぐいと惹かれ、その本を買ってしまい、その後の人生の目標となった人もいるかと思う。
「偶然、手に取った本が人生を変えた」という話も聞いたりする。

私はそれと同じ事をインターネットに期待でもしているのかもしれない。

               
               
                坂本  誠

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