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2011年7月

2011年7月30日 (土)

千百八十五: カッコ良い言葉

こんにちわ。

カッコ良い言葉について考える機会がありました。
誰しも、落ち込んだり苦しんだりする時があるものです。

そんな時に、腹の底から

    「我、勝てり」

と、苦難困難に対して、吠えてみるのも良い事かもしれません。
「我、勝てり」を現代語で書くと、「私はすでに勝った」という意味になります。
ですから、苦難困難の際中に、自らを奮い立たせるために、大和言葉で、

    「我、勝てり」

と、言うのも一つの手かと思います。

しかし、この場合は、あくまで自らの苦難や困難に対して言うべきであり、誰か他者に対して言うべきではないでしょう。
誰か他者に言ったら、その他者をつぶしてしまう感じになるからです。

また、この「我、勝てり」の語を言う際に、「勝てり」の言葉から雷(かみなり)の語を連想してみると、より効果的に、自らの苦難困難を破れるかもしれません。
自らの苦難困難を壁と見て、自分の連想した雷が、その壁を破る稲妻(いなずま)というわけです。

                坂本  誠

千百八十六: 桜

            桜

    早春に
    桜の花びらが
    冷ややかな青空に
    散ってゆく。
   
    うすい桃色と
    うすい水色が
    手を取り合っているかのようだ。
   
    空の中で
    何度も、何度も
    桃色と水色が
    重なり合う。
    その姿は
    小さな蝶のよう。
   
    桃色と水色の
    うすい羽を
    はばたかせ続ける。
   
    その蝶が
    早春の桜の
    うすい緑の葉の
    森の中を
    静かに  飛んで、
    奥へ  奥へと
    逃げてゆく。20100329164157
               
               
                坂本  誠

千百八十七: おカネ_No.7

久しぶりのおカネの話です。

多くの人が、つまり、多くの国が、おカネのことで苦しんでいるでしょう。
つまり、おカネは人を幸福にする道具ではなく、人を不幸にする道具だったわけです。

政府という、その組織自体も、おカネのことで大変に苦しんでいるのでしょう。
色々とおカネの起源なり用途なりは、以前の記事で書いていますので、そちらを参照してください。
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昨今、原発を建設するために、国の政府が意図的に原発の建設を誘導しようとしていたと聞きます。
「エネルギーが必要だ、必要だ。エネルギーが欲しい、欲しい」となっていたわけでしょう。
また、原発を意図的に建設して、その技術を海外に売りたかったのではないのでしょうか。
つまり、エネルギーも物資と同じだと言えるでしょうから、要するに、心の奥底の欲が問題だったわけです。

また、おカネというものの数値が高ければ、その分だけ、他人より威張ることが出来る感じになるので、その欲も満たしたく、あったのではないしょうか。
確かに、おカネというものの数値が高ければ、高いほど、その人が努力した数値である、というならば、その努力を評価するべきでしょう。
また、「おカネというものを与えなければ、人が努力しない」というのならば、おカネは必要でしょう。
つまり、人がおカネ無しでも努力する存在ならば、そのおカネの存在は必要ないかと思います。
誰もが、全ての人々が自分に与えられた仕事を切磋琢磨するように自己研鑽に努めれば、それで良いだけでしょう。
また、その状態で、誰もが自分の仕事の成果を多くの人に分かち合えば、おカネの必要も無いでしょう。

また、現実、スーパー・マーケットで売られている品物や食品には、値段札が付けられて、容易に他の人の手に渡らないように、なっています。
つまり、甘いお菓子が無料となれば、子供などが、たくさん、その甘いお菓子を食べれば、虫歯になったり、肥満になったり、中高年の場合だと、糖尿病になって、やがて苦しみながら死んでしまうでしょう。
だから、そのような情報を頭に入れておきながら、自分で自分の心の内部にある欲を絶ち、自分に必要な分だけを分かち合うような感じで頂ければ、物資の制限器具としてのおカネの意味も消えます。

また、おカネの数値が努力した証ともなっていましたが、それが過ぎて、おカネは自慢のための道具ともなっていたでしょう。
「威張る」ということは誰でも良くない、と知っている筈ですが、現に、自慢の道具ともなっていた。
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はやい話が、どうすれば良いのか、というと、

    多くの人々は、自分自身で切磋琢磨する努力の存在であり、また、その自分に与えられた仕事の成果を、人々に与え、分かち合う、愛の存在である。
   
この状態ならば、多くの人にとって、おカネは必要ならなくなるでしょう。
また、

    「食べ過ぎたい」という欲の心が、虫歯や糖尿病を作って、結果、自分を苦しめるならば、多くの人々は物資への欲求を薄めないといけない。
   
と、わかるでしょう。
また、

    「何らかの物資やエネルギーを独り占めしたい。そのためには多くのおカネが必要だ」とあるならば、その独り占めした人が、周囲の人から妬まれて、格差社会を作っていた。
   
と、わかるならば、これも欲の心が、世界を狂わせていたと言えるでしょう。

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結果、おカネを多用し続けていた多くの国家の政府そのものが、現在、多額の借金で苦しんでいるのでしょう。
重複しますが、おカネは人を幸福にする道具ではなく、人を不幸にする道具と言えるでしょう。

もし、今現在、この世からおカネが消えても、多くの人々がスーパー・マーケットに行っても、「食べ過ぎても、糖尿病になるだけだ」と、知識があったら、むやみやたらに品物を手に入れる人もいなくなるでしょう。
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また、おカネというのは、交換器具として、世界で使用されていましたが、現代の発達した冷蔵庫や発達した輸送機関があるならば、品物をおカネという媒介物で交換せずとも、遠い場所まで、食料品を保存あるいは遠距離移動させることが出来るのです。
つまり、多くの人の欲の心が自分で自分自身を苦しめているだけです。

また、「エネルギーの乱獲をしたら、エネルギーが枯渇したり、大気や水を汚染するだけだ。その汚染の結果は自分の身体に返ってくる。だから、物資やエネルギーの乱獲をしないために、それらに値段札を付けて、乱獲しないようにしたい」と、わかっているならば、最初から、値段札を付けずとも、自らが進んで物資やエネルギーの乱獲をしなければ、それだけで終わりです。

つまり、欲の心が、地球環境も汚染し、また、人間社会を狂わせ続けていた、とわかるならば、欲の心を多くの人が消せば、地球は平和で愛の星となる筈です。

そのためには、上にも似たようなことを書きましたが、まず、多くの人は、自ら切磋琢磨する努力の存在であり、また、何らかの自分の仕事の成果を無条件で他人に与えれば、当然、相手も無条件でその相手の仕事の成果物を与えてくれますから、おカネ無しでも、平和で幸せに暮らせていけるというわけです。
つまり、多くの人が上のように、他人の事をも思いやる愛の存在であり、地球の事をも思いやる愛の存在であり、また、自分自身で切磋琢磨するという存在であるならば、地球や私達を苦しめている諸々の苦しみから解放されるわけです。
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また、お年寄りや身体の弱い人が高い医療費や税金に苦しんでいるのでしょう。
つまり、この世界から、おカネが消えたら、その人々の苦しみも除けるのでしょう。

つまり、多くの人々の心の上昇こそが、さらに多くの人々を救うでしょう。
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新しい時代が始まろうとしている。
   

                坂本  誠

千百八十三: 変わりやすい夏

おはようございます。

以前、『千百六十九:涼しい夏』と題する文章を書きました。
しかし、涼しさを頂けたのは、台風が去っての、ほんの2,3日であり、あとは例年通りの暑い夏になりました。

と言うよりも、天候の変わりやすさに気が付きます。
たくさん雨の降っている地域があるのも知っていますが、ある場所では、暑い夏となっています。

今、人の社会も、かなり変化が激しいですが、地球の天候も変化が激しいと言えます。

                坂本  誠

千百八十四: 医道について

こんばんわ。

私は出来るだけ医者にはかかりたくないものの、医者という職業は必要だと思います。
人体も一つの器物、つまり、車のようなものであり、車というものは、故障とかも起こすわけです。
普通、生きている人で、全く自分の身体を壊さなかった人がいるでしょうか。
いや、いないでしょう。
現代の人々のほとんど全ての人が病院に行っている筈です。
そして、医者が自分の身体を治してくれた時は、人は深く喜ぶものです。
また、治療をした医者にしても、その自らの仕事の結果を見て、自らの喜びとする筈です。

しかし、普通、名医と呼ばれている人ほど、難しいと呼ばれる病気を持ってこられるものです。
そして、聞くところによると、その名医と呼ばれる人も、その誰もが治せなかった病気を自分のところに持って来られて、一瞬、顔が曇るそうです。
以下の言葉を、心の中でつぶやきながら。

    「どうして、こんな難しい仕事を私が引き受けなきゃ、いけないんだ」  <---●
   
と。
医者にしてみれば、難しい病気と格闘するのが、己が仕事というわけです。

普通の私達の仕事でも、難しい仕事があります。
そして、他の誰かが出来なかったから、「その難しい仕事をさばいて欲しい」となって、その仕事を回される時があります。
そのような感じですね。
だいたい普通の社会人ならば、このようなことを体験しているかと思います。
医者も同じだということでしょう。
上の●のセリフは誰でも、一回以上はつぶやくことがあるかと思いますが、なぜ、そんなことをつぶやくかと言うと、その仕事をしているからです。
医道に限らず、最終的には、その業種を辞めるか辞めないかの選択になってくるでしょう。

ですから、どんな人でも、生きている内に身体が故障する時はあります。
そのために医道はあるかと思います。
そして、本当は、医者にとっても、私達の仕事と同じように、顧客から喜ばれた時に、本当に医者としての喜びを味わえるかと思います。

「顧客の笑顔が自分の笑顔」というのは、どの業種のどの仕事にも言えるかと思います。

また、人体もいつかは無くなるものであるから、それは肉体の終わる時、つまり、車の解体のような感じの時になります。
そのような時は、肉体も負担がかかり、普段は病気にならない時も病気になる筈です。
例えば、10代や20代の若い人間ならば、病気にならないところを、80代や90代の人になれば、ある程度、病気にはなります。
また、病気と言わず、怪我の場合もあります。
10代や20代の若い人間は少し転んだだけでも、骨折はしませんが、老齢の人になると、骨折したりもするのです。
これは、加齢と呼ばれる現象により、自然に人体組織、つまり、骨が弱くなっているから起きるのです。

だから、人体が強い時と弱い時も一生の内にあるわけです。
ですから、人体を治してくれる仕事として医道という道もある筈です。

                坂本  誠

2011年7月28日 (木)

千百八十一: 光と闇について

私の詩集に『光と闇の唄』というものがあります。
「どうして、この題名にしたのか」と以前の私を振り返りました。

夜空の美しさを思い描いていた記憶があります。
夜空とは美しいものです。
黒い宇宙空間をバックに、きらめく星がちりばめられている。
そして、きらめく星で作られているスペースと、黒い宇宙空間と比較すると、かなりの違いがあります。
圧倒的に、黒い宇宙空間が広く、きらめく星で作られているスペースは小さい。

しかし、日中はこれとは全く逆です。
空には太陽が一つだけです。
そして、どこもかしこも光だらけです。
しかし、意外なことに日中には、あまり、その光の美しさがわかりません。

夜になって、空に小さく小さく多くの星が輝いている。
夜の空間に光は少ないですが、今度は多くの星が見れます。
そして、意外なことに、逆に光の美しさと素晴らしさがわかります。

日中に光の美しさと素晴らしさはあまりわからないものの、夜になると、光の美しさを本当に堪能できる。
「光は素晴らしいものだ」と多くの人が知っているのに、その美しさと素晴らしさを理解するのが日中とは反対の夜である、というのは本当に意外です。
だから、私達は夜になると光を欲します。

つまり、あまりにも光の量が多いと、かえって、そのありがたさがわかりにくくなると思います。

これは光に限らず、他の事についても言えるかと思います。
あまりにも、恵まれた環境にいると、かえって、その環境の良さがわからなくなります。
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そのようなことを考えながら、『光と闇の唄』という詩集名を思いついた記憶があります。

当然、光を際だたせるような感じで、この詩集は作られています。
私は明るい詩を書くのが好きなのですが、この明るい詩を際だたせるために、暗い詩も、この詩集の中に入れています。
つまり、コントラストを際だたせているのです。
明るい詩がより際立って見えるためですね。

しかし、暗い感じの詩を私はブログ『悲喜憐偉』の方にほとんど載せていません。
理由は、あまり、世の中を暗い感じにさせたくないからです。
ですので、私の暗い詩を読まれたい方は、私の詩集『光と闇の唄』を、お手にとってもらえると幸いです。
               
また、世の流行歌を聞いたりすると、やはり、悲しい歌詞のものも多いわけです。
世の歌でも失恋の歌で、人々を多く感動させるものがあります。
つまり、この世の中が、全て、明るくて楽しい事だけで作られてはいないことを意味しています。
ですので、私としても、そのような感情や経験がありますので、それを詩として、作品に作り変えたわけです。
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つらくて悲しい事というのも、「全然、全く駄目だ」という事は無いかと思います。
昔から、文芸作品で古典に残っているものには、悲劇物が多いです。
悲劇作品を読んだり見たりした人が悲しくて泣いたりした時があると思います。
そして、それらの作品には意外に感動物が多い。
そして、ジーンと涙を流す。
そして、記憶に鮮烈に残る。
だから、人々の間で長く伝えられる。
「悲しい、苦しいの一点張りだ」とはちょっと違った意味での、感動が残り続ける。
そして、その人の心の素晴らしい一面が後世に伝えられている。

また、現実、つらくて悲しい事の無かった人はいないかと思います。
そして、それを乗り越えた時に初めて、喜びが訪れたりする。

だから、つらくて悲しい事にも意味がある。
先にも書きましたが、世の歌でも失恋の歌で、人々を多く感動させるものがあります。
この手の感動の事を私は言っています。Img7d92cb71b6dc

               
                坂本  誠

千百八十二: 書道展にて

こんばんわ。

二百六十四:書道を見て』の続きのようなものです。
書道の展示会に来て、その床の上に置かれているソファー・タイプの椅子の上に座ってみるのも一興です。

壁一面に毛筆で書かれた文字が立ち並んでいるわけです。
その椅子に座る人は目の前にも、文字が埋め尽くされており、自分の背後にも、同様に文字が埋め尽くされており、左にも、右にも文字がそびえ立っています。
ですから、書道展に来て、感じることは、「文字の林」でしょう。
そして、その文字の林の中で椅子に腰かけている自分の姿を、第三者の目で、つまり、他人の目で自分を見てみるのも面白い事かと思います。

人は通常の木の林や森ならば、「自然の木に囲まれている」と感じるでしょうが、「文字の林」の中を歩いたり、その木立の中を歩いたりすることには、意外なものを感じるかもしれません。
しかも、その書道の展示会に出品者が展示する作品に、作者が一文字一文字に己が精魂を込めているわけです。
ですから、さらに推敲して、「人の精魂の森」を書道展に来たら感じるかもしれません。
あるいは「人の気迫の中を歩いてゆく」とでも、表現できるでしょうか。
昔から、「一筆入魂」という言葉もありますしね。

同じような感覚で、絵画の展示会にも同様なものを感じるかもしれないですね。
「絵の森の中を歩く」のような。

                坂本  誠

千百七十八: 表現について

おはようございます。

色々と励ましを頂いたり、ないしは、お叱りを頂きながらも筆を走らせたりする今日この頃です。
今現在は、筆では無く、パソコンのキーボードで、この原稿を書いています。

「他の何かの原稿を毎日書かれている」という人の文章を見ても、「その日その日の気分が、どうしても原稿の上に載ってしまう」という事は、反面、ちょっと、怖い事だと感じます。
私は以前、どこかで、「気分が揺れている時は、筆を休めた方が良い」という感じの記事を自分で書きましたが、「どうしても、毎日書かないといけない」という人もいるわけです。
私の場合は筆を休めても良いわけですが、それでも何をか書いている自分に気が付きます。

それでも、書いたものを発表する時は、出来るだけ気分を整理して、ブログに載せているつもりです。
が、その「出来るだけ気分を整理した」と、その時は自分で、そう思っても、時間が経って、つまり、2、3日経つと、さらに気分が変わります。
その2、3日後の気分の変わり具合とは、プラスの方向であったり、マイナスの方向であったりもします。
ですから、2、3日後に自分の文章を発表しようとしても、その時の気分も、これまた変わっているので、文章発表自体がとても難しいことに気が付きます。

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つまり、「文章を書く」ということは、自分で考えた事、つまり、自分の心の内容がそのまま文面に現れます。
ですから、「黙っておく」ということも、大事なことでもあるかと考えます。
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私が一つ言えることがあります。
多分、何かの文章を発表しようとする際に、美しい自然の景色を見た後で、その文章を発表した方が良いかと思います。
「美しい自然」というのは無条件に人の心を癒すからです。
つまり、人の心も綺麗になる。
人の心が美しくなった時点で、自分の書いたものを見直すと、美しい心の状態で、前の心の状態、つまり、自分の書いた文章を見直すと、どこか訂正をかけるべき個所が見つかるかもしれません。
しかし、「その時の美しい心の状態」と言っても、「完全完璧の至高の、この世に比類も無い美しい心」とは言えないでしょう。
しかし、その心の状態は出来るだけ自分の心の綺麗な状態だと言えるでしょう。
ですから、他の人と比較をしないまでも、その自分にとってのベストな心の状態で、以前書いた文章を推敲した方が良いように感じます。

何かの保養施設や療養施設も美しい自然のある場所に立っていることが多いです。
美しい自然はそれだけで人を癒します。
ですから、美しい景色の場所で良い文章が書ける人もいるかと思います。

しかし、「ある人が常時美しい自然に触れる機会を持つ」ということは、これも無い事でしょう。
なぜならば、雨の日が持ったり、暴風雨の日だってあるわけです。

ですから、こんな時は、美しい景色の写真を10分見て、心の美しい状態を作るとか、美しい音楽を聞いて、十分に心を癒した後で、以前に書いた文章を推敲した方が良いのかもしれません。

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しかし、実際に言えることがあります。

色々と本を出している人もいますし、その他何かの機会で、自分の文章を発表する機会が現代社会で増えました。
それらの人々も、一日の24時間に思った事の全てを文章にして、発表しているのではないことに気付きます。

一日の内に400字詰め原稿用紙を20枚書く人がいるとしましょう。
400×20で8000文字です。
しかし、その8000文字と言えども、それでも、一日に想った言葉の総数のダイジェスト版であることに気が付きます。
人の一日の平均睡眠時間は8時間と聞きます。
一日のその平均8時間の睡眠は除くとしても、残りの16時間は、起きている時間ですから、その16時間の間に、人が心の中で語る言葉の総数は、8000文字を優に超えています。

例えば、「電車に乗り遅れた。悔しい」とか、「上司に、こんなことを言われた。私はつらくて泣きそうだ」とか、「蝉の声が聞こえて、とても夏らしい」とかの書くに足りない程度の心に湧き上がる文章などを、数え上げたら、多分、8000文字を超えているかと思います。
(「蝉の声が聞こえて、とても夏らしい」という文章は書くに足りる文章かもしれません。)

ですから、人は一日の内に思った言葉のほんのわずかのダイジェスト版を何かの文章にして、発表していることに気が付きます。
なので、「全ての人が、完全に24時間、心の中で正しい言葉を発し続けるのは、これは可能なことだろうか」とも考えてしまいます。
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人は「正しく語る」ということも、難しいようですが、「正しい文章を書いて、正しい形で表現する」ということも課題になってきているかと思います。
しかし、正しい文章を書いて発表するというのも、もとを考えれば、「正しく語る」ということが基本になっています。
しかし、現代のように、インターネットの発達した時代になると、ある人の書いた文章が一瞬にして地球の裏側の人でも読むことは可能な時代です。
「正しい文章を書いて、正しい形で表現する」ということは現代の新たな課題だと言えると思います。

どんな人も、心があちこち向くというのであれば、書く時でも、心があちこちと向いてしまうので、常時、綺麗な心を保つのが難しい。また、文章に訂正をかける時でも、心があちこち向いてしまう、というのならば、やはり、文章表現とは難しい事だ、言えるかと思います。

だから、私が考え付く一つの方法としては、

    1:何かの文章を書く。
    2:美しい景色の写真を見たり、美しい音楽をわずかに聞いて、心を綺麗にして、文章の訂正などをする。
    3:美しい景色の写真を見たり、美しい音楽をわずかに聞いて、心を綺麗にして、文章の発表をする。
   
という、ここまでの作業をして、文章の発表をした方が良いのかもしれません。

ここまで書いて気付くのは、「心を美しくする方法とは何か?」に、つながってくると思います。
               
               
                坂本  誠

千百七十九: 心を美しくするには

前の段『千百七十八:表現について』の続きです。
音楽、絵画、文章、ダンス等の諸々の表現活動を行う人も、文章を書く人と同じと言えます。
なぜならば、どの活動も結局、人の心を表現しているからに過ぎないからです。
表現活動を行う人も、「一日24時間の内に、全てが全て、心がきれいだ」ということは無いでしょう。
しかし、正しい表現活動、美しい表現活動を行うためには、結局、心がそういう状態になっていないといけないから、別の表現されたものを見たり、聞いたりして、その美しい心の現れを感じたら良いかと思います。

正しい文章や美しい文章を作りたい人は、美しい音楽を聞くとか。
あるいは美しいダンスを見るとか。
美しい音楽を作りたい人は、美しい自然を見たり、あるいは、美しい詩や文章を読むとか。

結局、美しい心を作っていこうとすると、その心自体も正しくなってゆくことに気が付きます。
昔、「心は真・善・美の状態を保つように努力しないといけない」と聞いたことがあります。
ですから、美を追求してゆけば、自然と、心も真と善を持つようになると思います。

もちろん、全ての人が、心がこの真・善・美の状態を24時間中、保つことはちょっと不可能でしょうが、このように心を向上させる一つの手段として、美しい芸術作品に触れる、ということもあるかと思います。

また、別の手段もあるでしょう。
上の話で言うならば、善の話、つまり、善(よ)い話を聞き続けるわけです。
世間にも、涙が流れて、感謝するという善い話がいっぱいあります。
実際、そのような善い話を聞いて、感動して、涙を流し続けたら、

    「心が清まって、軽くなった」

という人も多いかと思います。
ですので、この「真・善・美」のいずれかの方面を追及したり、高めたりすると、相互に良い影響を与えて、心を正しい状態に持ってゆくことが出来ると思います。

                坂本  誠

千百八十: 窓_No.3

こんにちわ。
               
千百:窓_No.2』の3段目です。
私の通うセミナーの窓の外の移り変わる速度も速いようです。
つい先日は、窓の外から差し込む冬の陽射しを暖かく感じたものですが、今は盛夏です。
窓の外の木々の緑は濃く深いです。
「緑萌ゆ」という表現がピッタリです。
実は、その緑の木々の間には、小川が流れています。
そして、セミの声も聞こえます。
セミナーの教室の中にいると、森の中を流れるせせらぎの音の上に、セミの鳴き声が乗って、この教室まで、飛んで来ているかのようです。

ちょっと想像すると、せせらぎの上を、そのまま、セミが緑の木立の間をすり抜けて、やって来ているかのようです。
せせらぎの音とセミの鳴き声が緑の木々の間を抜けて、私の耳に入ってくる。
耳と目で、その夏の情景を味わえます。
水色と緑が、夏の強い陽の光にまぶされて、交わり合いながら、セミの姿を心で感じたりもします。

一服の清涼感。

夏場でのセミナー教室での窓の外の一コマを描きました。
               
               
                坂本  誠

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