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2011年5月18日 (水)

六百五十一: 性について_No.2

こんにちわ。

性のことについて、幾つか書いている私です。
キリスト教や仏教では、性を否定する感じがありますけど、これは、ちょっと疑問に思います。
誰でもわかると思いますが、性を否定したら、人類絶滅します。
また、人は中学生ぐらいになると、二次性徴を迎え、どうしても、心の中に異性を思い描いてしまうものです。
まあ、心の中に異性を思い浮かべるなんて、物心ついた時から、誰にでもありますよね。
そして、死ぬまで異性を愛する心を誰でも持っています。

聖書の中のイエス様は、ちょっときつい言葉を残されているようですので(その言葉や考えについての私の考えは後で書きます)、今、ここでは仏教側に現れるミロク菩薩様のことを考えます。
ミロク菩薩様は世を救ってくださるという、ありがたい方だそうです。
もし、人間の性が完全に否定されると、人類が絶えてしまいますから、ミロク菩薩様が救う筈の人々がいなくなってしまいます。
また、そうでなくても、恋愛の思いや行為は、誰でもしてしまうものです。
ですから、ミロク菩薩様が、この世にいるならば、そのような男女の愛を温かい思いで許して下さると思います。

また、現実、学生の時というのは、彼氏、彼女のいない人の方が多いかと思います。
ですから、相手がいないという行為を、その人が行ったとしても、「その人々は全員地獄行き」というのは、これは無いと私は思います。
もし、「地獄行き」となったら、世の学生はおろか、かなり多くの人が「地獄行き」になるでしょう。
で、現実にそうなのか、となると、これはやはり違うと思います。

だから、ミロク様は男女の思いや行いを温かいまなざしで見ていると私は思います。

しかし、男女の遊び事も、お酒と似ていると思います。
お酒を飲んで遊んでもいいでしょうが、お酒を飲み過ぎて、アルコール中毒になったら、誰もが病院に連れて行かれるでしょう。
ですから、何事も「程々」が大事かと思います。

あと、一説によると、聖書は書き換えられていると言われています。
例えば、イエス様が誕生した時は描かれていますが、その後のイエス様の30年間の人生が書かれていません。

ですから、イエス様は厳しい人ではあったようですが、男女の愛を否定する人ではなかったと私は思います。
これも、上に書いたように、男女の愛を否定すると、人々を救う筈のイエス様にとって、その人々自体が地上から皆無となってしまうからです。
イエス様は人類愛や隣人愛を説いた方でしょう。
ですから、男女の愛も否定することはないでしょう。

それに、日本の秋になると青空にトンボがよく飛んでいます。
二匹、つながったままで飛行しているものは、これは性交しているのですね。
私達が、その姿を見て、「けがらわしい」とは、ほとんど誰も思わないでしょう。
宇宙サイズの目で私達人間の姿を見ると、極微の一点です。
宇宙サイズの目で、男女の行為を見たり、地球サイズの目で、男女の行為を見たら、きっと、上に書いた、つがいのトンボのようなものでしょう。

だから、男女の行為は恥ずかしくないものだし、また、それを行って、全ての人が生まれてくる筈です。
だけど、やはり上のようにお酒の飲み過ぎのような問題になるといけないでしょう。

あと、男女の怨恨絡みで犯罪なり、面倒事が起きたりしますが、これは今、私が書いているものとはちょっと別件になりますね。

性について書いてみました。

          坂本  誠

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