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2011年5月

2011年5月31日 (火)

千三十九: 岬の少女

       岬の少女

  岬にて
  一人の少女が  海を見ている。
  大海より立ち登る  地球の母なる女神(おんながみ)。
  背後の山の中に聳え立つ  地球の父なる男神(おとこがみ)。
  
  少女のイヤホンから流れる  音楽が
  少女の心に入り込む。
  
  カモメ達が
  岬から
  空に向かって  飛び立ってゆく。
  
  少女の心は
  翼をつけた船となって
  音楽に沿って
  飛び立ってゆく。
  
  飛んでゆくカモメ達を波として
  少女が乗っている。
  
  少女の頬に
  涙が一粒
  こぼれ落ちてゆく。
  
  
       詩集『赤い炎と青い水』よりImg7d9392d026a2
            
                坂本  誠

千三十六: 前に進むこと

こんばんわ。

何かの諺で、

    「迷った時は、前に進むこと」

という言葉を聞いたことがあります。
人は生きていて、前に進んでいいか、後ろに引くべきか、右に進むか左に進むか、それともじっとしておくべきか、という状況が幾つか発生するでしょう。
そして、後ろに引いて良い時は後ろに引けば良いわけです。
じっとしておいて正解ならば、じっとしておけば良いわけです。
また、長い時間考えるのが正解ならば、長い時間考えれば良いわけです。
また、人からありがたい助言をいただいても、その時にわからず、後でその助言の内容を理解する時もありますが、やはり、その時にわからない時もあります。

つまり、どう考えても、どのようにして良いか、わからない時が人生の中で訪れるかと思います。
そんな時は、上の言葉のように、「迷った時は、前に進もう」と考えて、前に進んだ方が良いかと思います。
なぜならば、それ以上の選択肢が無いからです。
じっとしておくわけにもいかないわけです。
ですから、前に進む以外に手が無いわけです。
で、前に進んでいる内に、何かの正解の方法が見えてくるかと思います。

私は以前、『七百六:アクト』という文章を書きましたが、これと同じです。
アクトというのは英語であり、日本語で言うところの「行動や実践」という意味ですが、「迷った時は、アクトをかけろ」という言葉も良いかと思います。
「アクトをかけろ」と言うのも、語呂が良いからです。
また、「アクトをかけ続けろ」と言うのも語呂が良いように感じます。
自分を押し進めていますので。
また、自分の心に強い肯定感を与えている雰囲気があります。
自信が出るかと思います。

その五里霧中の状態で自分が選択していることが、前に進んでいる方向なので、その「前」という状態が、その人にとって、その時の最善の正解ではないでしょうか。
そんなことを考えてみました。

                坂本  誠

千三十七: 一年生

今はまだ春と言えるでしょうから、新一年生の季節とも言えそうです。

しかし、この一年生とは小学生もいますし、中学生もいますし、高校生もいますし、それ以上の方も大いにいるでしょう。
つまり、人は、いつ、どんな時でも、新一年生だと言うことがわかります。
会社に入っても、退社しても、もしくは死ぬ時でも、人は新一年生と言えるかもしれません。

つまり、どんな人も「自分は常に新一年生だ」と思わないといけないようです。
ただ、前に歩んでいるか、それとも後ろにいるかの違いだけのようです。
つまり、「人は永遠の旅人だ」と言われますが、これもやはり正解だと言えるでしょう。20110530111331
               
                坂本  誠

千四十一: 文章を書く人_No.2

こんにちわ。

四百六十六:文章を書く人』の二段目です。
私が始めて会う人に、よく聞かれることがあります。

    「坂本誠さんは、宗教活動をされているのですか?」

と。

しかし、実は、私は宗教活動を行っている気がしないのです。
確かに私のエッセイの中に、「神」とかいう単語を使っていたら、周囲の人が見て、「この人は宗教活動を行っているのだろう」と思われる方もいるようです。
海外とか、日本国内でも、「神」とか「仏」という単語を自分の小説なり、作品なりに書き込んでいる方を多く見かけます。
しかし、私がそれらの人々を見て、「私は宗教家である」というような気がしないのです。
ただ、それらの方々も、自分の題材を考えている内に自然と、「神」とか「仏」という単語を考え付いて、それらについて語っているように見えます。
ですから、私もそんな感じです。

ただ、「どんなエッセイを書こうか」、「どんな詩を書こうか」とか、題材については、色々と日々の中で探っていますので、「私は文章を書く人だ」とは言えそうです。
ただ、後はそれに向かって、「私はアクト(行動)している」と言えそうです。

                坂本  誠

千四十: 愛というものについて

おはようございます。

よく私が耳にする言葉に、

    「愛とは知るものではなく、行動するものだ」  <---●
   
というものがあります。

確かに、愛というものには、実践が大事なのでしょう。
しかし、思いますに、「愛とは、どのようなものなのか」を知ることも、また、学ぶことも愛の実践かと思います。
なぜならば、「知る」ことや「学ぶ」ことも人間の行動の一部でしょう。
また、他人の愛の行為を感じて、その愛の行為に感謝することも、これも愛の行動の一部かと考えられます。

また、「どのような行動が愛の行動か」を他の人に語ることも、愛の実践かと思います。
「語る」という動作も、人間の行動の一部だからです。

ですから、愛という行為の実践、例えば、「身体の不自由な方に電車の中で席を譲る」という実践も、「そのような行為も愛の行為だ」と知ることも、愛の実践であり、また、語る方も愛の実践を行ったと言えるでしょう。

(ついでなのですが、「身体の不自由な方に電車の中で席を譲る」という行為が、人目について恥ずかしいのならば、ある駅に着いた時に、何も言わずに席を立ち、そそくさと隣の車両に移って、そこで列車の中で立ち、見知らぬ人に席を譲るという方法もあるかと思います。こうすれば、席を譲るという行為が恥ずかしい行為のように感じなくなるかと思います。もっとも私は一つの方便を語っただけで、列車の中が空っぽで自分が席を譲る状況でないし、また、「自分の方が体調が悪くて、どうしても、席に座っていたい」というならば、それは席を譲るべきではないかと思います。)

ですから、愛の実践とは、「語る」「知る」「行う」「感じる」の全てが愛の実践であり、上の●の言葉もさらに広げて考えると、もっと視点が増えるかと思います。

こう考えてくると、愛の実践とは、普通、私達が生活しているほとんど全ての行為が愛の実践であることに気が付くかと思います。
普通の仕事とかでも、「愛の実践」と呼べるでしょう。
中には、ちょっとばかり「愛の実践」と呼べないものもあるように見えますが、普通、ほとんど全ての人が「愛の実践者である」と言えるかと思います。
(ちなみに、ここで、「神は愛なり」という言葉を思い出してみることも、面白いことかと思います。)20110315102021

               
                坂本  誠

千三十八: 冬のやさしさ

       冬のやさしさ
                        
  今、窓の外の雪を見ています。
  ひとひら、ひとひらの  雪が降るさまは
  一人一人の妖精が
  地上に舞い降りているかのようです。
  寒くて、凍えそうな  試練の時の
  生き物のための
  冬のやさしさと言えるかも知れません。
  
  この冬のやさしさの
  降りしきる光景が
  春のやさしさに  つながっています。
  桜の降りしきる光景へと。

       詩集『赤い炎と青い水』より
            
                坂本  誠

2011年5月30日 (月)

千三十五: 有名な人

こんばんわ。

有名な人だと、世の人々を色々と助けたり、幸福にしないといけないような感じに見えます。
例えば、政治家とか作家や芸術家とかがそうでしょうか。
その他、色々な有名な人がこの世にいるかと思います。
政治家の行動や作家の作品や芸術家の作品が世に良い影響を与えて、一見、世の中が良くなったように見えます。

しかし、作家の場合だと、その作品を読んでくれた読者が良い心を持ってくれたので、初めて、それから、徐々に多くの人の幸福が作られたかと思います。
つまり、多くの人が幸福になるためには作家一人の名前が特に有名にならなくても良いかと思います。
多くの人と共に幸福になったのであり、せいぜい、その作家の名前などは無くても良いかと思います。
その考えから行けば、「多くの人々を幸福にするためには、やはり、それを成した人は全ての人々であった」という話があっても良いかと思います。
より多くの人をより多く幸福にするためには、より多くの人の助力が必要となる筈です。
ですから、結局、その政治家や作家や芸術家の名前などは、最終的に、世間の中に埋もれても良いかと考えます。
この世の多くの人が幸福になれば良いだけだから、「多くの人々を幸福にした人は、結局、多くの人々だけであった」と最初から考えても良いかと思います。
「全てを幸福にしたのは、やはり、全ての人だった」と考え直して、もし本当に最終的に幸福な世界が出来上がったら、最初に、その有名に見えたような感じの人の名前を全く無名の人に置き換えても、差しつかえは無いかと私は考えてみました。

                坂本  誠

千三十四: 読書感想文_No.5

六百五十五: 読書感想文』の続きです。
この『読書感想文』シリーズは以前に4回書いていますから、今回で5回目ということになります。
古代ギリシャの四大悲劇と呼ばれる演劇文学があります。
古代ギリシャにも、喜劇物はあったようですが、あまり有名になってはいません。

また、シェイクスピアの書いた悲劇物とかがあります。
シェイクスピアも喜劇物を残しているようですが、悲劇文学物を書くのがうまかったようです。
やはり、人間は出来るだけ喜びを感じたいものですが、どうして、文学の世界では悲劇物が残るのが多いのかを考える機会がありました。
現代文学でも、見渡してみると、悲劇を描いたものの方が後の世に残りやすいようです。
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私がこのような悲劇文学を読んで、感じるのは、グッとハート(心臓)に来て、その余韻が強く、後々まで、記憶に残りやすいように感じるのです。
そして、その中に人に何かの良い教訓を残していくものが多い。
だから、悲劇文学の方が後の世に残りやすいのかと感じてしまうのです。
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ドストエフスキーの『罪と罰』とか『カラマーゾフの兄弟』を、かなり以前、空いている時間に読みました。
かなり長い長編小説ですので、時間がかかるのですが、どちらも、悲劇を取り扱っています。
そして、長いドラマを読み終わった後に、どちらも、壮大な感動が私に残りました。
どちらも、プラス思考的なラストで終わっているからです。
長い悲劇を見た後に、爽やかなラストを見ると印象が深く、やはり、私の中にその余韻が強く残っています。

ただ、残念に思うことがあります。
最近では、この『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』のダイジェスト版や漫画化されたものも書店で見受けます。
しかし、このドストエフスキー自身が本当に書いたラストの『エピローグ』と呼ばれる部分がこのダイジェスト版に欠けているのをよく見たりします。
「『エピローグ』は本編では無い」というのが理由からかもしれません。
しかし、私としては、是非、この『エピローグ』と呼ばれる部分をダイジェスト版に加えて、多くの人に読んでもらえたらなあ、と考えたりします。
当然、感動できるからです。

また、本当の悲劇文学のラストの作り方とは、そのようにハッピー・エンドで終わらせるのが最高の作り方かもしれませんね。
主人公が、長い苦しみと対峙して、最後に、その苦しみに勝利するのです。
そして、読んでいて気付くのは、当然、その主人公自体が作者の分身であることに気付くのです。
ですから、まず、作者は自分の頭の中で、その苦しみを自ら設定するわけです。
そして、作者自身がその小説の中に入り込み、つまり、現代風で言うならば、バーチャルな世界に突入して、自分でその苦しみに打ち勝ち、読者にその自分の苦しみの克服方法を提示するわけです。
だから、読者も似たような苦しみを得た時に、それらの小説を思い出して、自分の苦しみを抜け出すことの出来る方法の一部となるかもしれません。
ですから、読書が読者の将来を助けることもあるかと思います。Tanpopo

                坂本  誠

2011年5月28日 (土)

千三十: 和

       和

  愛が  光になり
  光が  知恵になり
  知恵が  命になり
  命が  喜びになり
  喜びが  調和になる。
  
  そして
  調和から
  再び  新たな愛が生まれる。

                坂本  誠

九百二十五: 良いと思ったこと

良いと思ったことは、広げなくてはならない。
そうしなければ、良いことが広まらないからだ。

            坂本  誠

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