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2010年12月

2010年12月31日 (金)

七百十九: Love

                                2010年12月31日
                               
こんにちわ。
今年も後、数時間となりました。
今年も色々とお世話になりました。
ありがとうございました。
来年もどうかよろしくお願いします。
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大きな天変地異や人災が今年も数多くありました。
しかし、この文章を読まれている読者の方々は、今日も何とかして、地球の上にいることが出来ました。
そして、他ならぬ私自身が、今、大地の上に立っています。
つまり、私は今日も、地球に守り続けられています。

そう、私を包む愛は大きいのです。
その愛は私以上にはるかに大きいのです。
そして、その愛が多くの人々をも守り続けています。

大気の中を、大きな風のように、大きな愛が流れ続けている。
それは宇宙に木霊する一つの音楽でもあります。
音色のかたまりです。
それが、多くの人々の心の見えない琴線に触れて、つまびき続けて行きます。
そして、人々の心からも見えない音楽が風のように流れ続けてゆきます。Img7d946aa237e8

            I Love You So.

         坂本 誠

2010年12月28日 (火)

七百十四: 光

冬になると、光が愛おしくなる。
太陽からの冬の光を浴びていると、健やかで安らぎのある光を人は感じると思う。
夏の太陽の光だと、こういうわけにもいかない。
冬の光を感じるに、まるで自分の身体が透明であり、その身体の中を乳白色のやわらかな光がすり抜けてゆくかのようだ。
安らかさと落ち着きが漂う光を持って、人々の身体の中を透過してゆく。

似たような体験は、そう、例えば、冬の朝、海に白い霧が立つことがある。
その霧の上を小船で漂ってみると、似たような経験が出来るかもしれない。
だけど、かなりの厚着をしないといけないだろう。

光にも様々なものがある。
夏の光と冬の光、また、春の光と秋の光のそれぞれの顔には違いがある。
冬の朝の光は、モーニング・シャワーならぬライト・シャワーと言ったところだろうか。
私が冬が好きなのは、そのあたりも理由があるからかもしれない。

冬のライト・シャワーを感じるのは、暗い宇宙の中で、透いた身体を持った自分の身体の中を、一つ一つの光の粒子が、またたく星のように、自分の身体を抜けてゆくかのようなものだろう。
そう、まるで、宇宙の中のフライトだ。
夜に、速いスピードの飛行機の機上の人が、冬の朝の乳白色の霧の中を静かに舞う自分自身を想像してみれば、今の私と同じ想像を抱けるかもしれない。20101227100935

                               
         坂本 誠

七百十六: 癒し(独白)_No.2

これからの人類の未来は、しばらくの間は、きっと「癒しの時代」となるかと思う。
私も色々と厳しいことも書いたり、何かを様々に書いているけれど、来年以降は癒しの時代になると思う。

別に、他の産業が無くなる、ということは無いだろうけれど、人のメインとなるものは癒しになると思う。

急速な科学の発展とかは、ここしばらく私は見たことが無い。
相対性理論とか、コンピューターの発明とかは昔にあったが、今は、若干、その延長が続いているだけだ。
人類の明日を全て切り替えてしまうほどの科学的な発展が無い。

もちろん、科学の進歩は少しずつは伸びてゆくと思う。
ただ、急激な発展ではないだろう。
コンピューターのソフトというものは、実は、あれは本と一緒なのだ。
プログラマー達はたくさんの本を書いているのと一緒なのだ。
本屋に行ったら、たくさんの本が並んでいるのと同じであって、私達の目にする機械にはコンピューターのソフトが入っているのだが、それは、たくさんのバージョン違いの本が入っているのと同じなのだ。
だから、コンピューターにも、そんなに急激な発展は訪れていない。
科学技術の発展にしても、日本国内でなくても、海外でも、そんなに真新しいものが発見されたわけでもない。

進歩の発展が完全にストップしていたら、それも困るから、少しずつは進んでいるけれど、特別のものを私はあまり見ない。
科学技術だけでなく、他の産業にしても、そんなに発展しているわけではない。

それよりも天変地異や人災がかなり多いから、多くの人々は癒しを求めているだろう。
だから、癒し系の産業が発展するかと思う。

そうかと言って、政治の問題や教育問題やその他の時事的な問題を個別に考えないといけない人はそうしないといけないだろう。
だから、そういう人もいないといけないだろうけれど、社会を全般的に見たら、「癒し」が流行るかと思う。

現実、ここ最近の世界の出来事や身の周りに起きた出来事を、多くの人が見たと思う。
そして、多くの人は心の奥底で癒しを求めたと思う。
だから、社会の主要なニーズは、今後、癒しの方向に向いていくかと思う。

私達の目だけを、タイプ・トリップさせて、100年後の世界に持っていったとしよう。
そこから、西暦2000年代の前半を、その目で見てみよう。
現在、西暦2000年代の前半だけど、相当な出来事があったと思う。
そして、多くの人々は苦しんでいる。
だから、100年後の目から考えたら、「この時代に必要とされたのは、癒しだ」と、100年後の目は思うかもしれない。

2010年の年末にもなり、来年以降のニーズについて、考えていた。Img7da78843558

         坂本 誠

七百十一: 冷蔵庫

「人によって、冷蔵庫の中身も様々だなあ」と思います。
冷蔵庫の中身を満杯にする人も、世にいるかと思います。
しかし、その状態で、冷蔵庫の中身のものを、かなり腐らせてしまった人も多いでしょう。
正味期限がかなり過ぎており、とても食べられないものがたくさん冷蔵庫にあるかもしれません。
冷蔵庫の中でも、食べ物は腐るのです。

私が思うに、冷蔵庫をそんなに満杯にしない方が良いかと思うのです。
つまり、冷蔵庫の中に余分な食べ物が詰め込まれすぎているかと思うのです。
定期的な冷蔵庫の中の掃除も、必要でしょう。

私が思うに、人はそんなに余分に買い込まなくても良いと思うのです。
自分の身体に足りるだけの分を軽く冷蔵庫に入れておくだけで良いと思うのです。

「冷蔵庫の中を満杯にしておこう」という発想は、やはり、人の肉体の物資に対する激しい欲求が基になっているかと思うのです。

「冷蔵庫の中を満杯にしておきたい」という人は、どことなく、肉体の肥満に苦しめられているのではないでしょうか。
肉体の肥満は、身体の様々な病気を起こすので良くないですから、その前の段階の冷蔵庫の中身を軽い状態にさせておくのがベターかと思います。
そうすると、冷蔵庫の中が軽いから、自然に、食欲の欲求が薄くなり、肥満に苦しめられなくてすむかもしれません。

つまり、冷蔵庫の中身の状態が、その冷蔵庫を持っている人の身体の状態を、少なからず、現しているかもしれません。
逆も然りで、肥満に苦しまれている方の冷蔵庫の中身を見ると、「冷蔵庫の中身も満杯であった」という状態かもしれません。

ですから、ダイエットの一つの方法として、「冷蔵庫の中を軽くしておく」という方法が考えられるでしょう。
「冷蔵庫の中を軽くしておく」ということは、つまり、その前の段階、「食材をたくさん購入しない」ということがダイエットできる方法かと思います。Img7da78843410

         坂本 誠

七百十二: シンクロニシティー

おはようございます。

世の中に「シンクロニシティー」という言葉があります。
日本語では「共時性」と訳されています。

これは、スイスの精神医学者のユングという人が命名しました。
つまり、ユングさんの書かれた文献を読まれた方が、この「シンクロニシティー」の意味を正確につかめるかと思います。
私が以下に軽く説明しましょう。

私が一冊の本のあるページのある1行を探していたとしましょう。
私が本棚を探しています。
ところが偶然、手がすべり、ある本が本棚から落ちて、その落ちた本の開かれたページを見ると、それこそが、まさしく自分の探していた1行だった。

こういうのが「シンクロニシティー」と呼ばれています。
ユングさんの本の中に、具体的な「シンクロニシティー」の例について、幾つか紹介されています。

また、有名な例では、電話の発明でしょうか。
アメリカで電話を発明した人はアレクサンダー・グラハム・ベルとなっています。
しかし、彼の特許の出願の同日のほんの数時間後にイライシャ・グレイという人が彼自身の電話の発明の特許を出願しています。
このベルとグレイという人の間で、平素、何かのやり取りがあり、彼等が意識して激しい開発競争をした、とは聞いていません。
つまり、全く、同じ時間に平行して、しかも独立して、同じものが進行していたと考えられます。
私達は、このベルとグレイの間柄を見て、「これはシンクロニシティーだ」と言えるでしょう。

この他にも、私達自身がある程度、似たような「シンクロニシティー」を経験しているかと思うのです。

この「シンクロニシティー」という不思議についての私の考えもありますが、、、
まずは、この私のエッセイの読者の方はユングさんの本を読まれた方が彼の考えを得られるので、そちらの方が良いかと思われます。
最近では、難しい手の本もわかりやすくマンガ形式で表現されたものもありますからね。Img7da788436cf

         坂本 誠

七百十三: 方丈記(我が家の猫ベルの帰天_No15)

今の我が家の猫は黒猫ですが、以前に亡くなった我が家の猫は白猫でした。
名前をベルと言いました。
読者の中には覚えてくれている人もいるかと思います。
そのベルをふとした機会に思い出すことがありました。

以下、いきなりなのですが、角川ソフィア文庫の『方丈記(全) 鴨 長明 著 武田友宏 編』の引用をさせて下さい。
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[二一] 子を失った武者の号泣

 ある武士に六、七歳ほどの一人息子がいた。この激震のさなか、その子は、屋根のついた土塀の下で、かわいい小家を作り、たわいなくあどけない遊びに夢中だった。と、突如、土塀が崩れ、一挙に埋められて姿が見えなくなった。
 ようやく掘り返したところ、小さな体は瓦礫でぺしゃんこに押しつぶされ、二つの目の玉なんか一寸(約三センチ)ほども飛び出してしまっていた。両親は愛児の遺骸を抱えて、声を張り上げて泣き悲しみ合った。私はその現場を胸をえぐられるような思いで目撃した。愛する子を失った悲しみには、勇猛な武士といえども、恥も外見もなくしてしまうものなのだと実感した。気の毒で、こんなに嘆くのも無理はない、と心の底から同情した。
 

:『方丈記』の原文

その中に、ある武者(もののふ)のひとり子の、六つ、七つばかりに侍(はべ)りしが、築地(ついひじ)のおほひの下に、小家を造りて、はかなげなるあどなしごとをして、遊び侍りしが、にはかにくづれ埋められて、跡形なく、平(ひら)にうちひさがれて、二つの目など一寸ばかりづつうち出だされたるを、父母かかへて、声を惜しまず悲しみあひて侍りしこそ、あはれに悲しく見侍りしか。子の悲しみには、たけき者も恥を忘れけりとおぼえて、いとほしく、ことわりかなとぞ見侍りし。
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         坂本 誠

七百十五: 存在価値

人は自分の存在価値を持つことが大事なことかと思ってしまう。
自分の存在価値が無ければ、自分はこの世にいて良いのか、悪いのかもわからなくなる。

    「自分は一体、何のために生きているのだろう?」

と思う人も出てくると思う。
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普通は、自分の仕事に自分の存在価値を感じるかと思う。
なぜならば、自分の仕事が自分のやりたいことだからだ。
しかし、最近の派遣労働では、様々な職場に派遣されたりするから、自分の仕事がころころと変わっているようなものなので、やがて、自分の存在価値が薄れてくると思う。
自分のやりたいことが、ころころと変われば、確かに、それだけ自分自身に対して存在価値を見出すことが出来なくなるだろう。
現実、派遣労働を行う際には、その紹介された仕事に対して、「やりたいか、どうか」を尋ねられるらしいが、派遣労働者にとっては、おカネが大事だから、否応無しに、その紹介された仕事に就かないといけない場合が多いと思う。
つまり、自分の正職がころころと変わっているようなものだから、やがて、やる気がなくなるかと思う。
つまり、自分の存在価値が薄れてしまうのだ。

    「派遣でなくて、正社員の職を目指せば良いではないか」
 
と、人は言うだろうが、そう、世界は甘くはない。
企業としては、派遣社員の方が人件費の面で安上がりだから、正社員よりも派遣社員を好む。
だから、「正社員を雇おう」という雰囲気が薄れてしまっている。

だから、将来的に、日本がどうなるかは知らない。
少し話が横に反れてしまった。
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また、今一つは学歴や職歴だろうか。
学歴や職歴によって、これも、人の幸せの感覚が乱高下しているようだ。
学歴や職歴も一つのインデックスと言えるから、これも自分の存在価値を揺らがせる一つの要因となっているだろう。
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だから、本当に自分のやりたいものこそ、揺らがない真のものだから、これこそ、自分にとっての真の存在価値と言えるだろう。
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私は人の健康づくりのことで色々と書いてはいるものの、もし、本当に自分のやりたいものがあり、それが自分の健康を壊すようなものであっても、それがその本人にとって真の存在価値があるものだったら、その人は大いに自分の健康を壊しても良いかと思う。
単純に、私は人の健康づくりについて、考えていたのであって、ある人が「私は自分の健康には一切配慮したくない。本当に自分にとって存在価値があると見なしているものに対して、自分は行動するから、私の健康を壊しても良い」と言うならば、それはその人の自由だと思う。
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だから、恐れるべきは、死の間際になって、

    「私は生きている間、とうとう自分の存在価値を見出せなかった」

という状態だろう。

「自分の存在価値を見出せなかった」と、なるならば、その人はぼんやりとした薄明の状態で生きていたことになるからだ。
逆に、職場でも笑顔で、はつらつと仕事をしている人を見ると、「この人は、やる気があって心が充実している」と多くの人が見ると思う。
その笑顔の人は、自分の与えられている職場の職に、かなり自分の存在価値を見出しているというわけだ。
大体、その笑顔の人を見ると、その人に病気とか、その他、何かの心配事が起きていることが少ない。
例えば、未来の自分の死を考えることなどしていない。
それだけ、今、その人がしている仕事に充実を感じているからだろう。

つまり、「自分にとって、これが本当に価値あり」というものをしている時に、人は余計なことをああだ、こうだと色々と考え込まないのだ。
だから、自分にとって、本当に価値あり、というものをしている時、その人は幸福なのだ。

だから、人が幸福を得る手段の一つとして、まず、「自分にとって、これが本当に価値あり」というものを探して、それに向かって、まっしぐらに走っていれば、その人の外部にある不幸を全く受け付けない。
また、その「価値あり」と思われるものをしているのだから、自分の存在価値も常時確認出来るし、また、否応無しに自分の価値をさらに高め続けるわけだ。
だから、ますます、その人は幸福になるだろう。
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もっとも、「私はそれほど自分の存在価値を見出したくない」という人は、その状態こそが、現在の自分の存在価値と言えるだろうから、その状態をそのまま進めていれば良いことになる。
だから、私の書いたことによって、無理矢理に時間を作ってまで自分の存在価値を見出す必要は無いと思う。
無理矢理探す必要も無いし、今現在の状態そのものが、自分の心の現われの一つだろうから、私の書いた「存在価値」と言うものを無理に時間を浪費してまでも探す必要は無いと思う。

         坂本 誠

2010年12月25日 (土)

七百十: 癒し(独白)

私も何をか、切羽詰ったような感じで生きているのを見出す時がある。

まず、私自身が深い癒しを必要としているのではないだろうか?
深い癒し。
多くの人も、この深い癒しが必要なのではないだろうか。

一歩、外に出て見ると、人々は激しい競争をしている。
その激しい競争が素晴らしいことのように思われている。
だけど、その激しい競争こそが、人々を不幸にしているのではないだろうか。
また、その競争が無いと、人々自体が生きていけないような生活スタイルを取っている。

私はカナダにも行ったことがないし、アメリカにも行ったことがないし、スイスにも行ったことがない。20100720164206
しかし、阿蘇山ならば、比較的に近いので訪れることが出来る。
その阿蘇の自然を見ると、ゆったりとしている。
清らかな光が、青い大空の中を風のように流れている。
穏やかな霊域も、そよ風の上に流されている。
地球の清澄さを感じることが出来る。
多分、カナダやスイスの美しい風景と似たようなものだろう。

メディアなどを見ると、人々は凄いまでの競争を奨励しているかのようだ。
その結果、世界の本質を見ることを少なくなっているかと思う。
喜びと光のあふれる世界から逆に遠ざかっているかのように感じる。

今までの地球は、かなり争いの多い世界だった。
これからの地球は、どうやったら、多くの人々が深い癒しを得られるかが焦点となるのではないだろうか。

人は心の奥底で深い癒しを求めていると思う。
その癒しを得るために、忙しい産業活動が行われているので、産業活動自体がその癒しを得るための妨害になっているような気がする。20100721112949

         坂本 誠

七百九: クリスマスの心

今日はクリスマスです。
ここ最近は、地球温暖化の影響で、暖かい冬が続きました。
しかし、今年は珍しく寒いですね。

この寒い冬だからこそ、かえってクリスマスが暖かく感じるのではないでしょうか。
寒い日々が続くと、心も寂しく感じたりするかと思うのです。
だからこそ、元旦の祝いやクリスマスの祝いがあるのではないでしょうか。

地球の北半球では、元日のお祝いやクリスマスの祝いは冬です。
「冬の寒い日にみんなで心を暖め合おう」そんな願いがあるからこそ、暖かいお祝い、元旦やクリスマスがあるかと思います。
実際、元旦とクリスマスは一年の内でもっとも、暖かいお祝いのように思えます。

暗闇が深いほど、ホンの一つのキャンドルの灯りが余計に美しく感じるかと思います。
日中、太陽の光が多いと、一つのキャンドルの美しさがわかりません。

だからこそ、クリスマスの祝いは暖かく、また、ほんのりとした灯りを人々の心に灯し続けているのでしょう。Img7d94bddfc92 

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クリスマスのお祝いの時、人々の心はどことなく暖かいものに満たされているかと思うのです。
その暖かい心が地球を暖かく包むと地球の上にも、暖かさが漂うかと思うのです。
ほんのりした、やわらかい暖かさが地球をくるむと、その他の多くの人々の心の中にある「しこり」が取れて、様々なことが解決されてゆくかもしれません。

一人一人には様々な問題があるでしょうけど、今、この一時に暖かい心が、人々の胸から立ち昇り、大きな、やわらかい光になって、そのやわらかな光の波動が、ふんわりとした毛布のように地球全体を覆わんことを、お祈りします。

         坂本 誠

七百六: アクト

おはようございます。

私は今まで、「なぜ、朝に目が覚めるのだろう」と考えて、起床したことがあります。
しかし、最近はそのような疑問を考えるのをやめました。
朝、目が覚めて、自分の信念をチェックし、そして、自分の心に言い聞かす言葉は

    「アクトしろ」
   
です。
「アクト」とは、英語のactであって、「行動」という意味です。
ですから、私は自分自身の心に言い聞かせています。

    「行動しろ」

と。
しかし、「行動しろ」という言葉よりも、「アクトしろ」の語呂の雰囲気がいいので、こちらを使っているわけです。
なにか、どこか、他の機会で、「アクトをかけろ」という言葉を聞いたことがあります。
この「アクト」という言葉の音の美しさも感じますので、自分自身に

    「アクトしろ」

と言い続けています。
どことなく私は勇気を感じます。

         坂本 誠

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