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2010年8月

2010年8月28日 (土)

五百六十六: ディスプレイと紙

ディスプレイと紙について考えてみました。
多くの人も知っているでしょうが、パソコンのインターネット上でのサービスの一部に『検索』というものがあります。

この検索サービスを使うと世界中で発信されている大量の情報を手に入れることが出来ます。
そして、大変便利です(だけど、手に入れられない情報ももちろんあります)。
以前のあるテレビの特集でも紹介されていましたが、この検索サービスを使うと、検索された情報が画面に一覧表示されるのですが、検索しようとした人はその一覧表示された項目の1番上から2番目か3番目ぐらいに目を通し、その下にかなり長い量の項目数があるのですが、それに目を通すことは稀だそうです。
その検索しようとした人にとって、本当に最重要な情報は何ページか後にある、かなり下の項目に表示されているかもしれないのです。
しかし、これは、現代のパソコンのディスプレイにとって、限界と言える部分でしょう。
ディスプレイの画面は、人の視界にとって、かなり小さいと言えるのですから。

これとは逆に、私達が朝刊に目を通す時や、大きな書店に行った時のことを考えてみましょう。
この時、私達は目を動かすだけでなく、首を回して、つまり、頭を回して、自分の目の位置を変えて、様々に視界を広げていることがわかります。
こうすることによって、私達はさらに莫大な情報を目の中に入れていることに気付きます。
つまり、首や頭を回すことにより、視界はもっと広がることに気付きます。
「見る」という動作は目だけに頼っていないことがわかります。
ディスプレイの画面だと、一点を注視することが多いので、例えば、私はディスプレイの画面の一番右下や一番右上の情報を読み落とすことが多いです。
だから、私が重要な文書を読まなければならない時は、紙に印刷して読むようにしています。

しかし、以前、紙の節約の一助としてパソコンが普及しました。
ですので、やたらと印刷をしないようにも努めています。
また、実際、森林を守るためにも、出来るだけ紙を節約した方が良いでしょう。

また、ディスプレイは常に光を放出し続けています。
これは電子を放出しているのです。
だから、人間の目に電子が常に飛び込んでいることになります。
昔のブラウン管はほとんど姿を消してしまいましたが、今でも、ディスプレイそのものは電子を放出することによって、画像を作り出しています。
太陽を直接、見ると人の目は悪くなってしまいます。
それと小規模の事が人の目に起こっていることになるかと思います。
だから、テレビの見過ぎは、きっと人の目に良くないと思います。

だからと言って、全然、全くテレビを見ないわけにもいきません。
オフィスでも、ディスプレイを一点注視するのは良くないと言われているので、時々は、画面から目をそらして、周囲の景色を見るように、うながされています。
首が凝ったり、目が疲れたりするからです。

ディスプレイを見て情報を得たり、紙を見て情報を得たり、首を回して、頭を回してさらに莫大な情報を得たり、それらを使い分けるのは、個々の人のその時々の判断に頼るしかないでしょう。

         坂本 誠

五百四十七: 罪について

日本語の罪という語の由来について聞いたことがあります。
「悪を包み隠せ。包み隠せ」という話し言葉から、つまり、「包む」から、その言葉が訛って、「罪」になったと私は聞きます。
つまり、己が悪の行為が多くの人の目に触れると恥ずかしいので、その悪を包み隠しておこうというわけです。
だから、たいていの犯罪行為は、多くの人の目に触れないような暗い場所で行われ、また、その行為をこれも暗い場所に隠蔽していることが多いように見えます。
「恥」という行為も似ています。
多くの人の目に触れたら恥ずかしいので、誰にも見えないように隠しておくのです。

だから、本当に心のやましいことをしている人でなければ、気軽に足どりも軽く、街の真ん中を歩けるでしょう。
だから、罪の行為を隠そうとしている人は、なかなか街の真ん中を心晴れて歩けないというわけです。

だから、何かを「隠そう。隠そう。必死で隠そう」という思いの人ほど、罪の思いがあるのだろうし、また、自分自身の心がどこか苦しくなるでしょう。
本当に何もやましい事を一つも心に抱いていない人は、大手をふって街の中を歩けます。
また、罪は暗い所に隠され続けているので、その罪を明るい場所で暴露されると、その人自身にとって、大変苦しい思いがするでしょう。

         坂本 誠

五百六十八: 災害対策

何年か前のあるテレビ番組で、「二酸化炭素が増え続ければ、世界はどうなるのか」という科学者達の疑問をスーパー・コンピューターでシュミレートさせて、何年か後の地球の姿を仮想的に現していた番組があった。
そのシュミレーション結果は、地球全体の気温が上がるのはもちろんのこと、ある場所では熱波が襲い、ある場所では、極端な集中豪雨が襲う、というものだった。
また巨大台風も増えると伝えられていた。

そして、私は今、何年か経って、その番組を思い出した。
私は「スーパー・コンピューターの描いたシュミレーション結果の通りになっているのではないのか」と思う。

20世紀までは、人々は自分の豊かさを追い求めることがメインの生活だったかと思う。
私は少なくとも21世紀は、人々にとって自然災害対策がメインの生活になると思う。
確かに経済対策や政治対策は、それなりにするべきだと思う。
しかし、災害に遭わない方が人々にとって優先されるからだ。

以前から、地球温暖化が人類に与える影響を科学者達が伝えていた。
その一つは伝染病の発生だ。
気温が高くなると、ばい菌が発生しやすくなる。
その分、新種の病原体も増える。
だから、伝染病も増える。

また、気温が高くなると昆虫がたくさん発生する。
その昆虫がばい菌を運び、伝染病が広がるというわけだ。

だから、様々な場所での掃除が重要性を増してくると、私は思う。
病原体は、暗くて汚い場所から繁殖が始まるからだ。
掃除をすれば清潔さが高まるので、完全とは言えないまでも、ばい菌の繁殖を抑えることが出来る。

今まで、地球温暖化に絡んでいると思われる自然災害に、幾らの金額が義援されたか、私はそのトータルの数値を知らない。
しかし、かなりの数値かと思われる。
また、経済的損失の総額もかなりのものと思われる。

20世紀までの人間は自分の豊かさを追い求める生活をしていたが、その豊かさを追い求めた結果から、自然災害が襲ってくるので、豊かさそのものが自分達の生活に自然災害を与えていることになる。
人々が豊かになろうとすればするほど、大きな自然災害が襲ってくることになるので、21世紀の人々の生活は自然災害対策がメインになるかと思う。
そうかと言って、いきなり地球上の全ての車と飛行機を無くすわけにもいかない。
また、人工衛星から送られてくる地球の夜の写真には電球の光が明々としている。
電球自体も熱を発生させているから、地球の上の全ての照明器具を無くしたら、これもかなり気温が下がるだろうけれど、いきなり、それを全て無くしたら、それ以上に大変なことが発生するかもしれない。

経済対策をしようにも、それ以前に自然災害が襲ってくるので、自然災害対策の方を先に考えなければならないかと思う。
南極大陸にある氷が全て解けたら、世界中の海面が50メートルか70メートル上昇すると言われているけれど、それが起きないように努力しないといけないだろう。
そのような状況が発生したら、経済がどうの、と言う余裕が無いだろうから。
住んでいる大地が安定なればこそ、その上で、はじめて人は安全な活動が出来るからだ。

最近は地震も多い。
これは、地球温暖化とつながっているのか、どうか、私にはわからない。

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追加です。
思い出せば、20年以上も前ぐらいから、異常気象が始まった。
当時、「この異常気象は一時的な現象だ」という楽観的な意見もずいぶんあった。
しかし、20年以上も異常気象が世界各地で続けば、もう、「一時的」とは言いがたいだろう。

つまり、もう、これからは自然災害に対して、楽観的な見方をすべきではないだろう。
しかし、一日中、泣き暮らすような悲観的な生き方もすべきではないだろう。

科学者達は異常気象の原因を特定しようとしている。
例えば、エル・ニーニョ現象とか、ラ・ニーニョ現象とか。
しかし、その原因を特定する前に既に自然災害は襲ってきている。
また、上に挙げた現象の原因を特定出来た後で、それらの現象の原因を取り除く作業をしていたら、もう遅いだろう。
私達の出来ることと言えば、個々の人が出来る最大の努力を今現在、行い続けるだけだろう。

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地球温暖化の原因は二酸化炭素だとほぼ、目星はついている。
産業革命以来、ほぼ200年間に渡り、二酸化炭素は空にばらまかれ続けてきた。
つまり、二酸化炭素もゴミだと言える。
そのゴミが地球の異常気象を作り出していると言える。
だから、「人類の自然災害と闘う期間が始まった」と言うよりも、「人類が自分で出したゴミ(二酸化炭素)の掃除期間が始まった」と言えるだろう。
そのゴミが大きな自然災害、つまり巨大な牙となって、人類に向かっているのだ。
つまり、公害との格闘だ。
今は、まだ、そのゴミの排出量を少なくする努力がなされているだけで、ゴミの回収、つまり、掃除までは行われていない。
まだ、大気中のゴミ(二酸化炭素)の量はどんどん増えている。

ある一定の期間が過ぎたら、大気中のゴミ、つまり、二酸化炭素を積極的に回収する期間が必要になると思う。

私達でも、自分の部屋で何かの活動をしていたら、ゴミが出る。
だから、部屋のゴミや汚れを掃除しないと、病気になったりする。
または部屋が汚れて、使い物にならなくなる。
だから、活動を中止して、掃除の時間を作らないといけない。

今は掃除期間の最初の頃かと言えるだろう。
だから、異常気象を自然災害と名付けて、自然や地球のせいにするのではなく、「ゴミ(二酸化炭素)を出した自分達が悪かった」と考えて、掃除を始めながら、これからの21世紀以降を生きていかないといけないだろう。

大気中の二酸化炭素の量が産業革命以前の状態に戻るのは、いつの日になるのか目星がつかない。

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自分の部屋や家や敷地内や何かの建物を掃除しても、まだ、伝染病が出てくるかもしれない。

海や川や山にゴミが不法投棄されている。
つまり、そこが汚染されている。
そこから、何かの病気が発生するかもしれない。

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以降は追加です。

海水ではなく河川や氷や地下水として地上にある水のことを陸水と言う。

この陸水のうち、氷や雪になっているのは2400万km^3ほどと現在(2010年)見積もられている。
海の面積は3億6113万2000km^2ほどだから、全ての陸の氷が解けると66mほど海水面は上昇することになる。
南極だけであればこの陸の氷の約90%が存在するので60mほど、海面が上昇する見積りになる。

                               
         坂本 誠

2010年8月26日 (木)

五百六十五: 番外編、短編小説『梯子』のお知らせ

こんばんわ。

私はこのエッセイ集『悲喜憐偉』でエッセイや詩を載せたり、時には絵を載せたりもしています。
しかし、今晩は短編小説『梯子』をご紹介します。
と言っても、10分程度の短編小説になりますので、ホームページにしまして、そこに一括掲載させて下さい。
ご時間のある時に、お読み頂けたら幸いです。

前回、『扉』という作品を紹介したのですが、この『梯子』も不思議な何かを感じるかと思うのです。

しかし、読者の方々の心の中に何がしかが残れば、私にとっては嬉しいことです。
以下、『梯子』のURLです。

http://hikirini.blog.bbiq.jp/blog/hi-ki-rin-i_hashigo.html

         坂本 誠

2010年8月25日 (水)

五百六十三: ガマの穂

こんばんわ。

ある場所に行ったら、久しぶりにガマの穂を見ました。20100820091958
昔はよく日本のあちこちで見かけられました。
私もあまりに久しぶりに見たので、この植物の名前が思い出せず、写真を友人に見せて聞いてみたら、やっと、「ガマ」という名前を思い出せました。

茎の真ん中にウィンナー・ソーセージのようなものが付いていますが、他の植物と違って独特です。
しかも、この部分が、すでに花だそうです。
何とも変わった花が、昔の日本にはよく咲いていたことになります。
しかし、見ていて、可愛らしさを感じます。

どこの誰の絵だったのか思い出せないのですが、大国主命(おおくにぬしのみこと)の近縁に近い女性が描かれてあったと思います。
その女性がこのガマの穂を手にしていました。
(間違えていたら、ごめんなさい。)
その絵を描いた人は、その女性の持つ奥ゆかしさをガマに持たせていたのではないかと思います。
確かにガマには他の花のような華麗さを感じません。

ガマが昔、日本にたくさん咲いていたということは、水辺や湿地帯が日本にはたくさんあったというです。
そして、当然、現代になるにつれて、水辺や湿地帯が減少していることを意味しています。
水辺や湿地帯がたくさんあり過ぎるのも問題でしょうが、無さ過ぎるのも問題かもしれません。
水を豊富に持つ大地は穀物がたくさん獲れるし、生き物も豊富です。

人間が水辺や湿地帯を埋め立てて、人の住める土地にしてきたので、土地が水を豊富に持っていないから、今年のように暑い夏だと土地が熱を吸収しにくいかもしれません。20100820092021

昔の日本の和名の一つに「豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)」というものがあります。
つまり、日本には葦も豊富でした。
最近では、その葦も少なくなっていると聞きます。
江戸時代までの日本の絵画を見ていると、葦の中の鳥を描いたものも多くあるようです。
いつの日にか、葦がたわわに群れている水辺の夜に水鶏(くいな)達の鳴く声に耳をすませてみたいものです。

         坂本 誠

五百六十四: 日本の芸術史を見て

日本の芸術史の、そう、明治時代から太平洋戦争が終わるまでの芸術家達は「大変だったろうなあ」と、つくづく思ってしまう。
病気や戦争や何かで早く死んだりしている。
そして、その人生の中身を見ても、結構、苦しい。

それと比べて、江戸時代までは比較的に豪華絢爛とした美術の世界が広がっていることに気付く。
例えば、戦国時代に建てられた巨大な城の巨大な襖(ふすま)にも、豪華な絵が残されている。
また、寺に行っても、見事な庭園が残されている。
江戸時代の絵画の世界でも、あでやかな世界が生き生きと広がっている。
確かに、どんな人でも、苦しみの無い人生は無いんだから、江戸時代までの芸術を愛した人々にも、それなりの苦難があったのを見出せるけど、明治維新から太平洋戦争が終了するまでの芸術の世界全体にかげりがあるのに気付く。

日本の戦の続いた戦国時代や鎌倉時代にだって、かなり、芸術が残されている。
私が思うに元来、日本の人は芸術を深く愛好する心があったのだと思う。
つまり日本人の心は大変豊かだった。
また、美しいものを尊ぶ精神を持っていた。
明治維新自体は喜ばしい出来事だったと思うのだけど、軍備拡張の裏側で、芸の心が削られてゆく方向があるのに気付く。
つまり、日本人の心が殺伐としていったのだ。
豊かで美しい心が、あたかも水の滴のように、一滴一滴と黒い銃弾に置き換えられてゆくと、絵の中にも黒い顔料の量が増えているかのように感じる。

現代の芸術を評するには、まだ時間が経たないとわからないだろうけれど、戦争の方向だけに時代が流れないことを祈る。

また、芸術療法と言って、精神医学の分野で、心の病んだ人のための一種の治療がある。
絵を描いたり、歌を歌ったり、その他の芸術を愛好することによって、また、芸術を自分が行うことによって、傷ついた精神を癒すのだ。
芸術が積極的に心を癒している。
だから、芸術が盛んな国の人々は精神的に豊かな人が多いように思う。

だから、昔の日本の人々は精神的に豊かだったのだと思う。
これからの日本の人々も精神的に豊かな状態になれば良いと思う。

         坂本 誠

五百六十二: やすらぎ

神社に来てみた。
とある場所で、深い精神統一をしてみた。
その状態で色々と考えたのだけど、ほとんどの人にとって、深いやすらぎこそが、一番大事なのだと思う。
多くの人が深い心のやすらぎを得られれば、他に何も要らなくなるかと思う。

多くの人々は栄耀栄華を欲しがり過ぎていると思う。
結果、それらを奪い合うために、争いを起こし、心が激しく乱れているのだ。
「争い」と言っても、人を殴ったり蹴ったりするだけではなく、オフィスの中で手で殴り合いはしないけれど、心で殴り合っているかと思う。

結果、心が激しく乱れて不幸になっている。
深いやすらぎを一つも手に入れられない。
人間にとって生産活動は必要だが、それが闘争活動につながっているかと思う。
人にとって一番必要なのは深い心のやすらぎだと思う。
なぜならば、それだけで、その人は既に幸せなのだから。
そして、その状態以上に、ほとんど何も求めるものは無いと思う。
言わば、母胎の中にいるのに似ている。
栄耀栄華そのものが人々を幸福にするどころか、その逆に、人々を不幸にしているかと思うので、矛盾を感じる。
深いやすらぎを得るという状態は欲の心から離れている。

         坂本 誠

2010年8月22日 (日)

五百六十一: 森林の保水能力_No.2

こんばんわ。
厳しい残暑が続きますね。
私はつい、この前、『五百五十七:森林の保水能力』という文章を書きました。
しかし、例えば、家の庭に植物や木が多くても、これだけ暑いと、その植物に撒く水の量も大変なものです。
今年は各地で豪雨があったのですが、それでも、水道代のことを考えざるを得ません。

そこで、夏の渇水状況というわけではないのですが、家の生活用水の残りをできるだけ残して、その水を庭の木にやってみました。
あと、普通、家で使用されている無駄な水の量もかなりのものがあるかと思います。

これだと、水道代も少しは安く上がりますし、各家庭の草木にも若干の保水が行われるでしょうから、家の周りの気温が低くなるかもしれません。
暑い夏を乗り越えたいものですね。20100501165543
                              
         坂本 誠

五百六十: 曇った日_No.3

今朝、空は曇っています。Img7da1327842f4
今年の夏は、生きている私達が初めて経験するぐらいの暑さかと思います。
しかし、今朝、曇っていますので、気温が低いです。

私は曇りの日をあまり好みませんでしたが、曇りの日も、こんなにありがたいものだと実感しました。
やはり、大空に雲が広がると、太陽光線を広大にさえぎりますので、光の量と熱線の相当な量が反射ないしは吸収されていると思います。
真夏の炎天下だと、曇った日をも愛するようになれます。

四百八十一:曇った日_No.2』で私は、

    梅雨に入りました。
    窓の外は曇っています。
    やはり、曇った日は抜けるような青空が恋しくなります。
    それこそが曇った日の良いところでしょうか。
    いつもいつも青空ばかりを見ていると青空の良さがわからなくなります。

と書きましたが、青空の美しさばかりと味わっていますと、つまり、青空だけの天候だと、砂漠のように炎熱をもたらしますから、いつもいつも青空ばかりを見ていると曇った日の良さがわからなくなります。
曇った日も良いものですね。

         坂本 誠

五百五十九: 自問自答(独白)

人にとって、何が一番幸せなのだろう。20100822154449
明日の命だろうか。
それとも何十年か後に自分の生命が存続していることだろうか。
何十年か後の生活の安泰のことばかりを気にしていたら、今現在が不安になってしまう。
今現在の自分が幸せな状態であっても、何十年か後の自分の不幸の姿を想定すれば、その仮想が今の自分を不幸にしてしまう。

だからと言って、未来の自分の設計を怠ることは出来ないだろう。
目標が無ければ、船は大洋の中でさ迷うのと同じだ。

地上で生きている間の目標は誰でも持つべきだろうが、どんな人も200歳まで生きることは出来ないだろう。
地上での栄耀栄華を求めれば、生の対極にある死が、その栄耀栄華を掴んでいる自分自身を苦しめるだろう。

古代のある栄耀栄華を極めた人が生きているうちに、自分のための巨大な墓を作っていたそうだ。
生きているうちに、掴んでいる自分の栄華と自分の死の象徴である巨大な墓が建造されている光景を目の当たりにして、大きな矛盾を心の中に抱きはしなかっただろうか。
この世の栄耀栄華を極めれば極めるほど、その栄華をさらに欲しいことになるから、この世の栄耀栄華とは永遠に掴むことは出来ない。
かえって、苦しみを感じるようだ。

人は一つの目的を掴んだ後、幸せになる。
そして、幸せになった直後、さらに大きな目的を設定する。
だからこそ、人は永遠に不幸な状態を背負っているのではないだろうか。
青い鳥は永遠に逃げ続けるのだ。

しかし、青い鳥を永遠に追い続けるからこそ、人は永遠の努力をする存在だと言える。

遠い星に異星人と呼ばれる存在がいてもいいだろうし、また、それ自体は悪いことではないだろう。
しかし、もし、いたと仮定しても、その異星人の姿かたちが違っていたり、生活様式は大幅に違っているだろうけど、私達と似たように、何かの問題と闘っているだろう。
それは私達と同じだ。
日々の生活苦を全て、片付けてしまえば、今度は退屈の苦しみが訪れる。

私達が死んだ後に死後の世界というものがあるかもしれない。
しかし、今度は捕食の苦しみが無いだろうから、退屈の苦しみが訪れるかもしれない。

私はよくショーペンハウアーという人の文章を引いたりするけれど、その人も同じことを言っている。
人は生活苦と退屈苦の間を振り子時計の振り子のように行ったり来たりしている。
だから、もし私達が遠い未来に遠い星に行って、そこにいる人々と一緒に生活をしても、この点だけは逃れることが出来ないだろう。

結局、私達がどこに行っても、明日のことを考え、また、10年後ぐらいの未来の生活に対する目標を持ち、生活をするだけだろう。
遠い星でなければ地球上の外国に行って生活をするのと同じだ。
今現在でも多くの人がいて、多くの幸せを感じている国もある。
しかし、その反対の国もある。
多くの人々が幸せを多く感じている国こそが一番幸せな国だ。
多くの国には違った価値があるから、その価値観に従って生活するのと同じように、遠い星の上で生活すれば良いだけだ。

遠い星に行けたとしても、同じような問題に悩まされるかもしれない。
今さっき、カレーパンを食べたのだけど、それと同じように目の前にある問題ばかりを考えずに何気ないカレーパンの美味しさを感じることの出来る、そのこと自体に感謝しないといけないだろう。
それとか普段、何気なく、目にしている植物の緑の美しさに感謝するとか。
ないしは、日光のありがたさとか酸素のありがたさとかを常日頃、思い出してみるとか。

もし、私が異星に行くことがあっても、同じような日々の精神生活を持って、その星の課題に取り組まないといけないだろう。

この前、映画『銀河鉄道999』のことを書いたけど、この映画のラスト近辺で、以下のセリフが交わされている。

メーテルの母はメーテルに言うのだ。
   
    「おまえに永遠の命と永遠の若さを与えてあげたのに」
   
そして、メーテルは母に言うのだ。

    「そして、永遠の苦しみも下さった」
   
と。

もし、仮に人間が永遠の存在だとすると、同時に永遠の苦しみを持つわけだ。
しかし、永遠の存在だからこそ、永遠の希望も抱けることになる。

結局、あまり大したことを考えずとも、今生きている私達が自分の運命と戦っているのと同様に、私達が遠くどこに行っても、また、時間を違えても、自分に与えられた宿命と闘い続けるだけだろう。
それが仮に異星に行っても、ないしは不死の世界に訪れても、変わりがないことを意味している。

上に挙げたショーペンハウアーもその著、『幸福について(新潮文庫 橋本 文夫 訳)』の中にアリストテレスの述べた言葉を引用しているけれど、ここに書くと、

    「幸福はみずから足れりとする人のものである」    アリストテレス
   
とあるが、これは本当にそうだと思う。

自問自答を続けた。

         坂本 誠

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