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2010年7月

2010年7月31日 (土)

高原にて

            高原にて
            
緑の  海原の上に
青い海が  広がる。
流れゆく雲は  白い波か。
波の上に  山が島となって  浮かんでいる。

草原の風も
海原の風も
等しく  私に触れてゆく。
癒しの  なびきとして。20100721085043
            
            坂本  誠

幸せ

            幸せ
            
我が家の猫が
ノミに  苦しめられていた。
私も  ノミに咬まれて  苦しめられていた。

我が家の猫に
出来る限りの事をしてあげた。

今では  もう
我が家の猫から
ほとんど  ノミを見つける事が出来ない。

我が家の猫は  幸せになった。
私も  幸せになった。
幸せと幸せが
つながっている。
            

            坂本  誠

2010年7月28日 (水)

さざ波の恋文

           さざ波の恋文

あなたと私は海が好きでした。
二人で手をつなぎ
砂浜の上を歩きました。
浜辺に打ち寄せる さざ波の音を聞いて
二人で楽しみました。

しかし あなたはこの海を越えて
遠い国へ行ってしまいました。
もう 私の元へ帰ってくることはありません。

今 私は一人で砂浜に立ち
さざ波の音を聞いています。

さざ波の上に
私の想いをつづることができればいいでしょうに。
そうすれば 波は私の想いを運ぶでしょう。
そして あなたが私といた時と同じように
心をいやすため 浜辺にやって来て
さざ波の音を聞く時
その響きの中に
私の想いも聞きとってくださるでしょうに。

               詩集『光と闇の唄』より
                坂本 誠

五百三十四: 『中高年登山・減らない遭難死』を見て

2010年7月27日にNHKクローズアップ現代で『中高年登山・減らない遭難死』が放映されましたが、私も見ました。
この北海道での登山事故が起きたのは一年ほど前でした。
当時、私は忙しくて、ニュースのトップで放映されていたのを記憶していますが、その他の状況をあまり知らずに、この日にNHKクローズアップ現代で詳しい解説を見ました。
そして、番組の冒頭部分で得られた最初の感想は

    『そんな危険なもの(登山)も商品化されているの?』

というものでした。

私は学生時代に学校での登山をしたきり、登山から離れていました。
かなり昔に読んだエベレスト初登頂の漫画を記憶していますが、その漫画を読んだ時、
    「登山とはアタックチームを組んでまでの死に物狂いの行動なのだ」
と思っていたからです。
アタックチームだと、ある会社でもプロジェクトチームを組んでの商品開発や、最近の探査機『はやぶさ』の件でもプロジェクトチームを組んで一つの課題や困難に取り組んでいますから、このプロジェクトチームの状態だと理解が得られます。
登山のアタックチームもプロジェクトチームと言えるでしょう。
そのチームの中に年期の長い人や、まだ経験の浅い人もいるでしょうが、同じ強い目的を持って、一つの課題に立ち向かうからです。

しかし、番組で出ていた北海道での登山チームは私の考えるものとはちょっと違っていました。
確かに、「みんなで山に登りたい」という志望は同じなのですが、ある程度の観光も目的だったからです。

番組を見ていくうちに初めて知ったのですが、最近の中高年の方も山に登り始め、ある程度の健脚を得て、登山をしているのを知りました。
ある程度の登山は心身を鍛え、また、山の美しさに触れることにより、己の見聞を広めて、自分の素晴らしい人生の経験の一つとなるからです。
しかし、問題は悪天候の登山日になるでしょう。

番組を見ていると、エベレスト等の完全に危険な山への登山ではないとわかるからです。
あの北海道で晴れていて、爽快な風を受ける日だったら、充分に中高年の方々の一生の内での最高の記念日になったかも知れません。

「世の中の登山ツアーを完全に禁止するのか?」となると、これも問題があるでしょう。
私が過去、友人から聞いたことですが、「原則として山に一人で入山してはいけない」そうです。
なぜならば、山で岩場などで怪我をした時、例えば、岩場で足を骨折をしたら、周りに誰も助けてくれる人がいません。
街中だと、大声で叫べば、誰か助けが来るでしょう。
しかし、山では人がいないから誰も助けようが無いのです。
昔は携帯電話も無かったから、もっと不便だったでしょうが、今、携帯電話を持って入山しても、遭難した時、その場所がどの場所なのかを正確に自分で測るのも難しいかもしれません。
ですから、携帯電話を持っていくことも大事かもしれませんが、山に二人以上で登山した方が良い、と友人に言われたことを記憶しています。
二人以上で入山すれば、一人が骨折等をしても、肩を抱えて、何とか下山することが出来るかもしれません。
だから、登山ツアーというサービスがあっても良いでしょう。

しかし、私が「登山ツアー」という商品があることもあまり知らなかったことからも、この商品はまだ比較的に年数のあまり経っていない商品であると考えられるのです。

番組の中では「ガイドの責任が大きかった」と述べられていました。
これも一理はあるかもしれません。
ですので、番組の中で、厳しいガイドを養成する外国の学校の講習風景が紹介されていました。

しかし、気が付くのですが、もし、その道30年のベテラン・登山ガイドでも、31年目の登山にして遭難死することがあるでしょう。
登山家で冒険家の植村直己も、普通の人からは考えられないぐらいのベテランだったのでしょうが、やはり、アラスカのマッキンリー山で遭難しました。
ですから、ある程度のガイドのちからは必要とされるでしょうが、世に完全なガイドというのも存在しないでしょう。
また、ガイドの方にそれなりのちからがあっても、ツアーを主催した会社とどれだけの明確な責任の線引きがあったのかわからない状況でした。
ツアーを主催した会社が雇ったガイドに対して、どのような組織を組むのか、とかです。

例えば、雇った3人のガイドの方のどの方をリーダーとする、という感じの規定があるのか、という疑問も湧いてきます。
もし、ガイドを3人雇ったとしても、組織編制もそのガイドの方々にお任せする、という契約があったかも知れないし、無かったかもしれません。

普通の何かのプロジェクト・チームだと組織編制も明確化される筈ですが、この場合はそのような強固なプロジェクト体制のものでもない。
だから、この事故の責任の所在はツアー会社とガイドとの契約書の内容にも踏み込んで考えないといけないものがあるでしょう。

いずれにしても、ガイドである登山家も登山の経験を積むに連れて、上に書いた植村直己のように、「いつ山で死んでもかまわない」という心境にもなるようです。

また番組で紹介されていた外国のガイド養成学校のように専門にガイド役を養成し、また、そのガイドが仕事を本気で請け負う、という学校が日本であるのだろうか、という気がします。
つまり、日本の中において、登山専門学校があるという情報を私は聞いたことが無いです。

確か、ちょうど一年前に北海道のこの登山事故が起きた時に関連番組としてどこかのテレビでちらりと見たのですが、最近ではエベレスト登山もツアー商品として紹介されていたと聞きました。
そのエベレストの登山ガイドであるシェルパのセリフがテレビで紹介されていました。
「エベレストを目指す登山客がほとんど登山の経験が無い人で、しかもそれでエベレストを登ろうというのだから、ほぼ完全に事故を起こしたりするので、誰も登頂出来ない。だから、事故を起こすぐらいなら、登山しないで欲しい」と。

だからと言って、誰も彼も色んな山の入山を禁止にするわけにもいかないでしょう。
また、山に一人で登ってくる方が、もっと危ないでしょう。
また、単純にツアー商品でなく、普通に近所の友人の4,5人で北海道の山に登りに行っても、同じような危険の度合いもあったでしょう。

また、どれだけ人間の側で登山の体制固めを強固にし続けても、いつの日にか、登山で問題が起きるでしょう。
昔から、「山を甘く見てはいけない」と言われていますが、どれだけ、人間が科学技術を進めても、また、どんなに組織作りをしても、この問題の無くなる日は来ないでしょう。
しかし、人間の側で登山の体制作りを続ける努力をし続けないといけないでしょう。

また、この危険があるからこそ、山は美しいのかもしれません。
山には美しい景色があります。
そう簡単に人が触れることの出来ない場所に美しい自然が残されているわけです。
危険であるからこそ、人が近寄れず、美しい自然が残されているわけです。20100720155617

遠い将来になっても、入山の際に、「山の神を畏れる」という気持ちを人は持たなくてはいけないのでしょう。

ちなみに上に書いた冒険家、植村直己さんの亡くなられたマッキンリー山のあるアラスカのデナリ国立公園にも広大な自然の中に美しい自然が数多く残されているそうです。
幾つかのキャンプ・ツアーが出ていたりするそうですが、このデナリ国立公園の中にも熊などの巨大な野生動物がいて、襲われる可能性もあるそうです。
だから、デナリ国立公園では、人間の方が異物であり、巨大な自然の方が主人公であるそうです。
つまり、人間中心の土地ではないそうです。
だから、デナリ国立公園では人間世界側でのものの考えはあまり通用しないそうです。

    (参考文献:『地球の歩き方 アラスカ 1999~2000年版』 ダイヤモンド社)

また海に関しても同じことが言えるでしょう。
この話題は山でしたので、山のみに話題を絞っておきたいと思います。

         坂本 誠

五百三十三: 苦手なもの

私にも苦手なものがあります。
人によって苦手なものは幾らでもあるでしょうが、ここで言う私の苦手なものとは、文章の題材にするのに難しいものを苦手なものとします。

例えば、化学ですね。
普通の科学の方は好きだから書けたりするんですが、化学の方は意外と私の方に題材を持っていません。
学校時代に化学を習ったりしましたが、どうもあまり好きでなかったです。
う~ん、やはり好みでなかったのが一番の問題でしょうか。
「好みでない」と書くと、「実はこの方面はあまり好きではなく、次第に考えたくなくなる」と書けるでしょう。
どんな人でも、あまり関心の無い方面には次第と語る材料が少なくなるのに気付きます。
また、あまり考えたくないから、その方面の単語を調べなくなっているのにも気付きます。

また、告白ですが、私は営業や販売が苦手です。
う~ん、やはり人それぞれに得意不得意があるのは仕方ないですね。
会社の中に営業部門や販売部門があるのを見ますが、やはり色々とあるようです。
でも気付くことには物を売る部門ですから、人との対話業と言えます。
どんなに良い品物を作っても、その品物をブスッとした顔で売る人と笑顔で売る人には、品の売れ行きが違うでしょう。
ですから、人との対話業は笑顔を浮かべることが何よりも重要なことかと考えます。

ですから、苦手なものを書こうとしたら、その方面において、何が苦手なのかを考え、その苦手なものを列挙し続けたら、色々な文章が書けるかと思います。
上の化学で言ったら、そうですね、原子や分子などのミクロのサイズのものを一つのフラスコに入れて、そのフラスコ分の原子や分子のサイズのものの量を測ったり、分子の組み合わせの組成を調べたりするんですが、やはり、ミクロのサイズのものを抽象的に感じたりするので、その抽象的な状態を苦手に感じました。
例えば、「モル」という単位があります。
「アボガドロの法則」と言われています。
同じ温度と、同じ圧力の条件下だと、同じ体積の中の全ての気体分子は6.02 * 10の23乗個ある、という法則ですか。
Aという分子やBという分子だと、かなり大きさが違っても良いでしょうに、上のアボガドロの法則だと、それらの分子の数が同じ個数なのですね。
私達が小さなゴルフボールをタンスの中に30個入れることが出来ても、サッカーボールだとそのタンスの中に4個ぐらいしか入らないことが常識でしょう。
しかし、その化学でのミクロの世界である分子の世界では、その常識でないのですね。
仮にゴルフボールとサッカーボールを分子だと仮定しても、そのタンスの中に必ず、サッカーボールとゴルフボールが10個入っているんですね。
この辺が不思議な部分です。
謎の部分です。
また、かなり抽象的です。

この辺は「光の速さは絶対に不変である」と同じように、宇宙の最初からある決められた公理のようなものなのでしょう。

         坂本 誠

五百三十二: 医の道について

人の身体が全く健康だと、人にとって、これ程、嬉しいことはないかと思う。
だけど、以前にも書いたことがあるのだけど、意外に全く完全に健康な人、あるいは高度に健康な人は自分の健康作りにおろそかになっているのにも気付く。
だから、突然の大病を患い、死んだ人がいるのを聞いたことがある。
だから、人は一つぐらいの病や身体のうちの0.1%ぐらいの病を残しておけば、健康増進の努力をするので、健康の維持と努力の精神を学ぶことが出来るだろう。

その考えからゆくと、やはり医者も必要になってくる。
だけど、技術の進歩はここでも進んでいる。
普通の風邪を治すぐらいならば、病院に行かなくても、街の中にある薬局に行って、風邪薬を買えば、風邪を治すことが出来る。
だから、やはり、それよりも一ランク上の病を持った人が病院に行っている。
しかし、一つの病院の医者に通っても、病気が治らないこともあるだろう。
そのような時、さらにより良い医者のいる病院を紹介されて、その病院に通うこともあるだろう。
つまり、医者にもランクがある。
私達が健康の維持の喜びを持つのと同じように、医者にも人を治す喜びがある。
医者にとって自分の患者の病が医者を悩ませ、手こずらせるのであるが、その病を治した時には、医者に喜びが訪れる。
しかし、自分がその病を治せないとわかると医者は自分の敗北を認め、自分よりも腕の上と言われる医者に、自分の患者を回さないといけない。
しかし、その1ランク上の医者もその患者の難しい病気を治せるかどうかはわからない。
つまり、医者にも病と闘い、それを克服し、腕を上げるという努力の喜び、精進の喜びがある。
だから、全ての人が健康であれば、世の中に医者は一人もいなくなる筈だが、現実はそうではない。
私が上で書いたように、もし人が0.1%ぐらいの病を持たないといけない存在ならば、医者も存在し続けないといけないことになる。
「人を治す」という医の道は残り続けるだろう。
「人を治す」という言葉には広い意味があるからだ。
肉体、精神、生活様式、会社での生活様式など人が治さないといけない部分は無限に見つかるからだ。

手塚治虫の漫画に『ブラック・ジャック』という奇跡の名医の物語がある。
漫画の中で彼自身が世界一位の名医と設定されてあるから、実際に彼の元には世界一の難病、奇病を持った患者が集まってくるのだ。
普通の病院で治せるような患者ならば、その病院で治されているというわけだ。
そのようなことが現実の医の世界でも起こっているそうだ。
だから、世界一の名医ほど、世界一深い悩みと闘っているわけだ。

医の道も深いと言える。

         坂本 誠

2010年7月26日 (月)

五百三十: 鬱憤晴らしについて

鬱憤晴らしの時に、ハンバーガーを食べることがある。
普通の私の生活では、あまり肉を取らないようにしているが、鬱憤晴らしの時は別だ。
ハンバーガーも食べ過ぎたら、太ってしまうけど、時には良いものかと思う。

肉も毎日三食、ステーキを食べていたら、やがてステーキの素晴らしさがわからなくなる。
時々食べるからこそ、ステーキは美味しいものだと思う。

江戸時代までは庶民が牛肉を食べる習慣はあまり無かったそうだ。
明治になって『牛鍋』と呼ばれる西洋風の食べ物が店に出回るようになり、これが日本の世間に受けたらしい。
それ以前の庶民の主食とは、米と野菜と魚肉だったのだろうか。
だから、江戸時代の絵画の庶民の姿を見ても、あまり太っている人がいない。

現代の食生活を批判している訳ではない。
なぜならば、その昔の江戸時代の食生活だって、批判しようと思ったら、批判できるからだ。

私達は食生活のあり方を考えるのではなく、バランス感覚の欠如こそを考えるべきだろう。
私も完全にバランスの取れた食生活を考えることが出来ない。
なぜならば、様々な肉体を持っている人がいるからだ。
ある人は肉のようなエネルギーの大きい食物が必要とされるだろう。
ある人は野菜のような食事ばかりが必要とされるだろう。
だから、考えようによっては、人間一人ひとりが自分自身に対する栄養士にならないといけないだろう。
だけど、自分が自分専門の栄養士になってもまだ難しいだろう。
野菜ばかり食べないといけない人だって、一ヶ月に一回ぐらいはステーキを食べないと逆にイライラして、精神不安定になるかもしれない。

自分で自分自身の栄養士になってもまだ難しいだろう。
自分が日々に身体を動かす運動量の問題もあるからだ。
運動量の多い人は多少、肉を多く取ったり、ご飯を多目に食べても良いだろう。
しかし、運動量の少ない人はこれの逆だろう。
これに身体が病気中かどうかの問題もある。

結局、自分で自分専門の栄養士になった後、自分で自分専門の運動療法士になれば、自分の糖尿病や高血圧、高コレステロール症、その他の生活習慣病を治せる医者となれるだろう。
結局、BMIと呼ばれる自分の理想平均体重を知り、それに近づけるような食生活と運動生活を自分が手に入れられれば、自分が自分に対する医者となれるだろう。
あとは自分の意志の問題になるだろう。
他にも色々と考えられるけど、鬱憤晴らしでハンバーガーのことを考えていたら、ここまで考えてしまった。

         坂本 誠

五百二十二: 政治について

この前、選挙があったけど、選挙の後、様々な意見が交わされたのは良いことかと思う。
なぜならば、4000年前の世界や3000年前の世界のことを考えてみればわかる。
その当時の日本の世界のことを考えてみよう。
まだ、日本には村しか無い世界だっただろう。
その村に10人しかいないとしてみよう。

その村の10人は、何らかの個々の仕事を持っているだろうけど、村全体のことについて話し合う段階では、実はその村の10人全てが政治家だったのだ。
その10人が寄り合って、意見を出し合い、村全体の方向性、つまり政治を行ったのだ。

実は、これは現在の世界と同じだ。
何かのメディアを使ったり、自分のブログに何かの意見を書いたり、自分の住む市区町村のことに関する意見を出せるようになっている。
また、広い段階では、冒頭に書いたように国にも意見を出せる。
なぜならば、日本は民主主義の世界だからだ。
別にメディアを使わなくても充分に何か他の手段も使えるだろう。

おそらく、日本では2000年前ぐらいの世界から、天皇を中心とした中央集権国家が始まったのだろう。
その後の世界、つまり、武士を中心とした世界では政治の世界は恐ろしいものとなっていった。
大名、つまり、一国の殿様に何かを上申したら、領民の首がはねられる可能性も大いにあったのだから。
これは人々の恐怖心を煽った専制政治としか言いようが無い。
どうして、あんなにちからの荒れ狂った世界が誕生したのか私にはわからない。

また、西洋の歴史や東洋の歴史を見てもそうだ。
最近になって、色々な国で民主主義の世界が確立されて、日本に住む人が日本のこと、つまり自分達の政治を考えられるようになった。

もっとも、自分達が日々、専念していることもあるから、なかなか政治に専念できないのが私達の状態だから、私達の代表である政治家を選び、そこで、国会議事堂で自分の意見を代弁してもらったりしている。
だから、私達一人一人の述べたいことを考えている政治家を選挙の時に私達は選んでいる。

もっとも、非難や中傷を含んだ意見というのは、これは意見ではなく言葉による攻撃と言えるだろう。
それは建設的な意見とは言わないと思う。
また、「論戦」という単語もある。
この「論戦」という単語の中には、「戦(いくさ)」という単語を含んでいる。
だから、これは戦いの一種であって、何か血なまぐさいものを私は感じてしまう。
だから、普通の私達の生活でも、なるべく穏やかな口調や言葉で何かを論じ合わないといけないのと同様で、「論戦」と呼ぶべきものを行うべきではないかと思う。

         坂本 誠

五百十二: ある問題に対する考え

多くの人々はおカネをありがたがる。
なぜならば、おカネが無いと自分に必要な物資を手に入れることが出来ず、困窮し、死の恐怖を味わわされるからだ。
だから、今現在、人類自身を一番、苦しめているものは実はおカネだと思う。
だから、ほとんど、多くの人が日々の生活で、おカネのことで、苦しんでいるのではないだろうか。
だから、逆に人々は無限に高い額のおカネを欲しがる。
人間、減って嬉しいものは自分の体重ぐらいなもので、あとは全てのものを増加させたいと願っているところが本当の気持ちだろう。
おカネがたくさん無いと人は安心して暮らすことが出来ない。
だから、逆を言えば、このおカネをたくさん所有している人が権力者ともなっている。

そして、このおカネ獲得のために犯罪者グループが生まれたりする。
彼等とて、おカネに苦しめられなければ、進んで犯罪者グループに入ることは無かっただろう。
犯罪者グループはおカネを手に入れるために犯罪を犯し始める。
彼等は世の人々を恨んでいたりする。
しかし、彼等が本当に恨まなければいけないのは、地球の上に存在するルール、おカネのことだろう。
彼等はおカネに苦しめられた結果、逆に他の多くの人々から大量にそのおカネを不正に手に入れようとするのだ。

また、おカネ獲得のために、人々は地域開発を起こし、地球の環境の破壊も進んで犯し、結局、その地球の環境破壊が自然災害を起こし、人々を苦しめている。
自分で自分の首を絞めているようなものだ。
おカネの多寡により、優劣を決められてしまった国々の中で、おカネが欲しいために戦争の準備を着々と進めている国もあるらしい。

もともと、おカネは全ての物資に交換することが出来るから、物資の代表と言えるだろう。
つまり、人間の物質に対する欲求が強いと言えるだろう。
なぜ、人が物資に対する欲求がそんなに強いかと言うと、単純に人が魚や肉を食べなければ死ぬからだ。
死は誰でも恐ろしい。
この死を遠ざけるためには、魚や肉を大量に手に入れられるようにしておかなければならない。
だから、人は「大量の物資を手中に納めておきたい」という欲求が発生している。
その大量の物資を手にするための道具はおカネなのだとわかる。

つまり、おカネそのものが悪いのではなく、人間の物資に対する欲求に問題があるのだ。
それと今一つは死の問題だ。
人はなるべくその恐ろしい死を遠ざけておきたいから、物質欲が発生し、ここから悪循環が始まっている。
つまり、人は死の恐怖を遠ざけようとしている。
この世界に生まれた私達は死の恐怖に苦しめられ続けているのだ。
これが原因で人々の間の、つまり、私達が今、眼前に見ている混乱した世界が発生していると言えるかと思う。

しかし、もし、不死の世界に私達が存在しているとしよう。
死の恐怖も無い。
だから食べ物を手に入れるための努力もしなくても良い。
そんな世界だと人は努力する存在になるだろうか。
だから、恐怖というものが、この世に存在するから、その恐怖を克服するために、人は努力をする存在になると言っても良いだろう。

ここまで考えると、この世界が良い世界なのか、悪い世界なのか、という疑問が発生してくる。
だけど、この疑問の解答はこの文章を読まれている方々の一人一人の思いにゆだねることにしたい。

あと、面白いことに江戸幕府の時代までは、ある藩の勢力を現す道具として、「石高(こくだか)」が用いられた。
石高というのは、その藩の内部の田んぼで米の取れる量だった。
このお米の取れる数の多さによって、藩のちからが表示されていた。
例えば、「二百万石の大名」とか。
この辺りは『五百八:税について』も参照してください。
今で言えば、ある企業のちからの強さをおカネの数値で表しているけれど、意外に江戸時代までは違っていたというわけだ。
藩の内部で取れる数値の米の量や、現代のようにおカネの数値でも良いけれど、何かの物資の数値によって、その人の権力の度合いが測られているというのは、恐ろしいような気がする。

また、「権力」という言葉は嫌な響きを持っている。
「権力」という言葉は、他人に命令したり、盲目的に支配させたり服従させたりするような感じがあるからだ。
だから、「金権政治」という言葉があるが、多くの人にとって、この言葉は嫌な響きを感じるだろう。

         坂本 誠

五百二十九: プログラミングについて

プログラマーというと、パソコンに向かってキーボードを叩いている人を思い浮かべる人が多いと思う。
実際、何をしているのか、というと実はたくさんの文章を書いている。
本屋さんに行くと大量の本を目にすることが出来るけど、それと同じで、つまり、コンピューターに対する指示書をたくさん書いている。
「コンピューター」とよく私達は言っているけれど、「ロボット」と言い換えてもいい。
そのロボットに対する指示書をプログラマーは大量に書いている。
その大量の文章がコンピューターの中の小さな磁器装置の中に収められているので、多くの人はその文章の量の多さに気が付くのが難しい。
だから、ある程度、プログラマーは「本を書く人」と言い換えることが出来るだろう。

その文章のことをプログラマー達は「ソース」って呼んだりしているけれど、今、地上に出回っているソースを全て紙の上に印刷して本にすると、かなりの量の本が出来上がるだろう。
今のプログラマーはパソコンのキーボードの上でプログラミングしているけれど、1945年に作られたENIACと呼ばれているコンピューターにはまだキーボードもディスプレイも無かった。
だから、実際のプログラミングは配線コードを幾つもあるソケットに差し込み、それを変化させ続けるだけだったそうだ。
だから、その意味で言えば、家の中の多くの電化製品もプログラミングの一つと言える。
様々な電化製品を家の中で移動させて、人のために電化製品を役立てている。
だから、実際のソースと呼ばれるものは紙の上に書かれていたそうだ。

コンピューターは人間の正確な指示しか受け付けない。
だから、曖昧さが無いので、プログラムミス、つまり、「バグ」と呼ばれるものが多発する。
プログラマーの仕事はソースを書くことと、このバグを取り除くことが、そのほとんどの仕事と言えるだろう。

私が思うにこのソースは将棋の棋譜に似ている。
正確で間違いの無い表現が求められているからだ。
だから、よく言われているけれど、将棋に強い人がプログラミングの仕事に向いているかと私も思う。
論理的な思考が同じように求められている。

プログラマーの一つ上とされるシステム・エンジニアと呼ばれる人もいる。
だから、システム・エンジニアもプログラマーと言える。
多分、厳密に区別出来ないと思う。
システム・エンジニアとなると設計を依頼されたりする。
しかし、別に肩書きが重要な訳ではない。
設計にも上流工程から下流工程まであるけど、色々と省いて書くと、ほとんどの製品というものはベースになる製品があり、それから派生させて、新たな開発を行うのだ。
車もそうだ。
一代前の古い車からバージョンアップして新車を作るから、前の製品の具合と今回の仕様をうまく組み合わせて、つまり、うまい設計をしてソースを作成できるように努めなければならない。
だから、この部分で以前に他人の書いたソースを読めるちからが必要となってくる。
また、テストする時は下流工程から上流工程に向けてテストするのだけど、上流工程部分での設計ミスが大きな損失になるのは誰でも想像が付くと思う。
しかし、上流工程で設計されたものが完全であるとは言えない。
なぜかと言うと、製作を進めるにあたり、上流から下流に向かうにつれて、不具合が発生することが多くなるからだ。
これはソフト開発だけではなく、例えば、ハードである車の開発でも同じことが言える。
例えば、上流で設計していたことでも、いざ、車体の組み立ての段階で以前に使われていた車のネジの大きさが違っていたため、上流工程での設計を変えなければならないことが起きるのと同じだ。
上流で設計する際に物事の全てを知っていれば良いのだが、人間は全てを知る神様ではない。
上流工程から下流工程へ向かう作業のことをトップダウンと呼んでいる。
だけど、私が経験したことでは、製品のテストの段階からボトムアップと呼ばれる手法が製品開発に現れている。
ボトムアップというのは小さなものから大きなものを作ろうという手法だ。
だから、どんな車でもバージョンアップして新車を作るから、これもボトムアップと言える。
だから、製品開発の際にはトップダウンとボトムアップをうまく組み合わせれば良い開発が行えるかと思う。
上で話したように「車のネジの大きさが違っていた」と呼ばれるような現象も多々あるので、上流工程での設計書も「第何版」という具合でバージョンが上がっていったりする。
これは仕方ないと言えるだろう。

システム・エンジニアの一つ上とされるプロジェクト・マネージャーと位置づけられる人もいる。
だから、プロジェクト・マネージャーもプログラマーと言える。
やはり、厳密に区別出来ないと思う。
だいだい、このプロジェクト・マネージャーは一つのプロジェクトを総括する人だ。
プログラミングするというよりもシステム・エンジニアやプログラマーを使う。
プロジェクト・マネージャーにしてみれば、キーボードの代わりがシステム・エンジニアやプログラマーと言えるだろう。
だから、最上流の設計やお客さん(エンド・ユーザー)の要求事項を聞くことが多い。
また、一人一人の腕の違いによって、一人一人の工程、つまり時間配分をしたりする。
大工さんで言うなら、棟梁さんになる。
やっていて気付くのだけど、プログラマーにしてみれば、システム・エンジニアさんがお客さんになる。
システム・エンジニアの要求を満たさなければいけないから。
システム・エンジニアにしてみれば、プロジェクト・マネージャーさんがお客さんになる。
プロジェクト・マネージャーの要求を満たさなければいけないから。

話が飛んだけど、プロジェクト・マネージャーはお客さんの要求を満たさないといけない。
だけど、ここまで来ると、実はお客さんよりも、プロジェクト・マネージャーさんの方がコンピューターのことをよく知っていることの方が多い。
だから、お客さんにしてみれば、自分よりもコンピューターのことをよく知っている人と話すのだから、お客さんにとっては、悔しいことになる。
だから、ここまで来たらお客さんにとって「コンピューターを使ったら、どのように自分の生活が向上するのか?」がわからない。
私も今、色々と書いているけれど現実、本当に多くの人にとって、このソフトが必要だ、と思えるのは、人の口から出る言葉を、パソコンに取り付けられたマイクで音を拾って、コンピューターが認識して、自動的にパソコンが何かの仕事をするソフトだろう。
だけど、これは以前にも書いたことがあるけれど、センサーの問題もあるし、方言や、人の喋る口調のトーンの問題もあるから、ソフトの問題でもあるけれど、半分、ソフトの問題でもなくなってくる。
日本語用に作られたそのソフトの前に外国人を立たせて、外国語を喋らせたら、「認識不能」の言葉を返す以外に手が無いだろう。
また、何をするかよくわからない。

少し話が飛んだけど、プロジェクト・マネージャーさんとお客さんが話して、お客さんが何かのソフトを欲しいとしよう。
ところが、プロジェクト・マネージャーさんからしてみれば、そのソフトを作成しなくても充分に既存の製品で対応できることが多々ある。
だから、自分でもやっていたのだけど、本当にやっていて私にとって価値があった、と言えるのは、ある煩雑な計算が実際に必要とされていて、自分で色々と調査してもそれを計算するソフトが無かった、というものだった。
だから、自分でもそれを作成するのが困難と思えたものだった。
つまり全くの新規開発と呼べるものだった。
これが出来た時は、やはり嬉しかった。
また実際に「役に立てた」という実感があった。
また一種の提案商品とも言えた。
「煩雑な計算」と言うからには人が計算できないことは無いのだけど、やはり、手間と時間がかかり、お客さんにとって、それが何パターンもある、というものだった。

プログラミングのことについて、色々と書いてみた。
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あと、パソコンの世界で難しい単語がたくさん出て来るので、苦しむ人も多いと思うけど、それらの単語は例えば、本屋の一冊の本に相当している。
なぜならば、プログラマー達がたくさんの文章を書いているので、それらの文章を識別しないといけない。
それを識別するために難しい単語を使って、さらに難しい単語が組み立てられている。
だから、難しい単語の一つ一つを書店に並べられている本と思い、その単語に接しないといけない。
その単語の中にさらに難しい単語があるが、根気強く調べていけば難解なパソコン用語でもいつかはわかる仕組みになっている。

         坂本 誠

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