« 2010年4月 | メイン | 2010年6月 »

2010年5月

2010年5月16日 (日)

                涙
               
               
愛のある者に
涙が流れる。

               
                坂本  誠

カッコ良い男

            カッコ良い男       
            
            
カッコ良い男は
意外に  目立たない場所にいて、
勿論  人目につかない。

それでいて
負けず嫌いの男達だ。

            
            坂本  誠

四百三十四: 労働と賃金

人々の間で「働こう」という言葉をよく耳にする。
しかし、よく聞いてみると
    「世の多くの人々のために働こう」
という意味合いではなく、
    「自分の日々の生活用品を手に入れるための賃金を得るために働こう」
という意味合いでその言葉を使っていることに気が付く。
前者は自分の元から多くの人々へ愛が流れてゆく方向だが、後者は多くの人々から自分の元へとおカネを搾取しようとしている姿に気が付く。
人々から愛を奪おうとしている姿に見える。
だから、後者の人にしてみれば、もし仮に自分の手元に今の時下にして、100億円ぐらいの現金があれば、何も働かなくてもすむことになる(しかし、自分の手元に100億円の金塊を手にしている人々でも、多くの人に愛の実践として、労働しなくてはならないだろう)。
現実の世界では、おカネが無いと人間が生活できないようになっているから、このおカネ、つまり、資産が豊富な人ほど、暮らしが豊かで、かつ、権力者で、かつ、人々の上に君臨して、かつ、威張ることが出来るようになっている。
隣の家の人の収入が5万円ぐらい高ければ、もう自分には不幸感覚が発生するだろう。

人間の生活を完全におカネ無しに生きていけないように人間自身が仕組んでいるから、例えば、ちょっとした仏像に100円ぐらいの値段札が付けられていても、俗に言う霊感商法と言われるかもしれない。
だから、人間の生活をキープするためには別に、その仏像に1億円の値段札を付けても、悪くは無いわけだ。
よく過去の有名な画家の絵に何十億円の値段札が付けられていたりするのを見ることがある。
しかし、生前は、それらの絵が0円だったことも多い。
だから、生活の手段のためには、自分の絵に百億円の値段札を付けても、全く悪くないわけだ。
値段札を付ける人間の側がどのような額の値段を付けようが、それは自由だからだ。
また、仏像やキリスト像や聖母子像に10億円ぐらいの値段札を付けて、
    「これで、あなたは神様のちからを買いましたので、絶対に地獄に行くことはありません」
と言って、他人に買ってもらう人もいる。
悪徳霊感商法と呼ばれるものだ。
はたして、神がおカネで買えるだろうか?
この疑問を購入者は自分自身に繰り返し尋ねた方が良いと思う。
しかし、生きている人が生産している全てのものに値段札を付けないと生活できないから、聖母子像や聖書にも値段札を付けないといけない。
だから、その聖母子像や聖書でも霊感商法と言えなくも無いだろう。

付け加えるのだけど、おカネは人間の歴史の中の2000年か3000年ぐらい前に発明されて、流通している。
約150億年ぐらい前に宇宙を創ったとされる神が、人間のそのおカネを欲するのかどうか、自らに尋ねてみるのもいいかと思う。
また付け加えるのだけど、「神のちからを見なければ、神を信じない」という人々もいるけど、人々は「神のちからというものはテレビで出てくるマジシャンが奇術を行い、人を驚かせるような目に見えないちからの筈だ」と思っているらしい。
約150億年前にビッグ・バンで大宇宙が始まって、色々な物質が誕生した。
それらの物質はなぜ作られたのだろう?
そして、約150億年程経って、そう、今、私の目の前にノートとかペンとかカバンとかあるけど、それらの物質が形作られているけど、なぜ、それらの物質が目の前にあるのか自問してみるのも面白いかもしれない。
意外に神のちから、言い換えるなら、壮大なちからだけど、それはごくありふれて、私達の目の前に溢れている。
蛇足的なんだけど、「人はなぜ、ものを考えることが出来るのか?」っていうことを考えてみてもいいかもしれない。
「生き物がものを考えることが出来るのは脳味噌があるからだ」って言う人もいるかもしれないけど、「脳味噌がなぜ、そういう機能を持ったのか?」って追求し続けてみるのも面白いかもしれない。
現実離れしたことが、意外に自分達の目の前にあるんだけど、普通、なかなか私達は現実離れしたことまでに考えが及びつかないものだ。
意外な場所に人の盲点はある。

自分のうなじを自分の目で見るようなものだ。

おカネは現在、物の交換用具と貯蓄と人々の労働の公正な競争を促すための道具となっている。
しかし、このおカネの獲得のために強盗や殺人や汚職が絶えない。

結局、私達はこの世界で何が求められているかと言うと、自発的に努力をし、多くの他人に慈愛の行動を実践する人間になることが求められている。
そのような人々だけが世界に存在すれば、おカネがこの世から消えても、世界がうまく回転することになる。
実はこのような人間というのは誰でもが経験している筈の4歳か5歳ぐらいまでの乳幼児の頃の精神状態だとわかる。
この年頃の人は誰でもが自発的に努力し、また、他人に慈愛の行為をなしてゆく。
この精神状態を全ての人が取り戻し、その状態で自分の手に入れた技能を活かせば、世界は素晴らしいものになるだろう。
ところが、小学生や中学生に上がるにつれて、心が曇りだす。
「良い収入や華やかな業務」という肩書きの付いた職を欲するようになる。
つまり、競争というよりも闘争が始まる。
非行中学生の間では、恐喝行為と呼ばれるものがある。
非行中学生が他の善良な中学生から暴力行為などで脅して、おカネをたかるのだ。
中学生になると他にも色々とおカネに絡んだ犯罪が発生し始める。

また人々が実際に労働を始めても、だいたい40年後以降の老後の年金の不安のために今現在の生活が不安にさらされている人々も多い。
だからこそ、おカネをたくさん所有している人ほど安心できる生活になっている。
残念ながら、この世は苦界と言わざるを得ない。

もし人の寿命がわかると仮定すると、例えば、3日後に死ぬという人が1億円を所有しているというのは、おかしな話だろう。
昔の文献で、私が読んだのもかなり昔だから、その文献の名前を今思い出せないのだが、ヨーロッパの方に住んでいたある老婆が孤独死したそうだ。
周囲の人が彼女の家を整理していたところ、床の下から大量のおカネがあるのを発見したそうだ。
多分、その老婆のそのおカネとこの世に対する執着は物凄いものがあったと思う。
俗に言う、この世に未練を残した浮かばれない幽霊になっているかもしれない。
つまり、多くの人々にとって、おカネは公正な競争のために使用されているのではなく、生活の不安を打ち消すために使用されている。
だから、このおカネというものを生産しないと、人は極度の不安感に襲われる訳だ。

世の中に海賊行為をしたいという人々も「富が欲しいからだ」と言うらしい。
また、ある国の熱帯雨林の伐採をして開発を進める人々も「富が欲しいからだ」と言うらしい。
また、戦争行為を進めている国も富が欲しいから、それを進めているらしい。

おカネが人々に害悪を与え続けているように見えるから、私はおカネについて、他の人がどのように考えているか、本を調べてみたら、以下の言葉が書かれていた。
-----------------------------------------------------------
エル・ランティの考え

「宇宙の星で、ある程度進化したところに行けば、大きなセンターのようなところがあり、食べ物、飲み物などはどこにいても、お金など使わなくても出てくるのです。
人はそんなに食べられるものでないでしょう。
食料にしても、たくさん買い込んでも、食べられる量は決まっていて、余ったものは腐らせてしまうはずです。

ですから、そのときに、その時代その地域において必要な者たちが分かち合うということ。
分け与えるということ。
ほんとうに愛の思いの中で学んだときに、地域の中において人を蹴落としてでも余分にお金が欲しいとか、余分なものを貯めこもうとか、他の者と比べて自分が惨めだとか、優越感だとか、劣等感だとか、そのような思いもすべてがきれいになくなっていくのです。

            『宇宙時代の神の子たちへ』の40ページよりの引用      レムリア・ルネッサンス編    たま出版

         坂本 誠

2010年5月15日 (土)

四百三十七: 雑草

良く晴れた日に家の庭の雑草を取りました。20100425141331
普通は家族の者に任せていて、私は全く庭いじりなどしたことがありませんでした。
雑草を取るにしても、何十年かぶりの出来事でした。
色々と忙しくしていたら、庭の事なんか忘れてしまうものです。
また庭をいじることは私の趣味でもなかったからです。
しかし、最近、空き家になっている家を見て、庭に雑草が一杯生えているのを見て、自分の家の庭のことを思い出し、雑草を取ってみることにしたのです。
雑草を取るのも意外に重要なことだと気が付きました。
上で述べたように雑草が伸び放題だと、周囲の人が見て、不快に思うか不審に思うでしょう。

実は他界した我が家の猫ベルを動物霊園にやらず、我が家の敷地内に埋めました。
別に動物霊園にベルの遺体を預ける理由が無かったからです。
そのベルの墓の上にも雑草が生えているのに気付きました。
その雑草を引き抜く時、、、、、、、
いや、これ以上は、やめておきましょう。20100404080629

         坂本 誠

三角形

            三角形      
            
朝焼けの中
青い西の空に
月がかかっていた。
太陽と月と地球が
巨大な三角形を作っている。
            
            
            坂本  誠

朝日

        朝日            

毎朝  見る朝日の中の  美しさに
人は  感謝できるだろうか。

            坂本  誠

走る

            走る       

走る。

何も考えず、
何の目的が  あったのかも思い出せない  ぐらいに、
ただ
ひたすら
ひたすら、ひたすら
走り続ける。

そんな  走り  が  あっても面白い。

今の世の中には
そんな  走り  が少ないのではないだろうか。

            坂本  誠

            光      
            
真っ暗闇の中で  音楽を聞いている。
音楽が光に見える時。

            坂本  誠

四百三十六: カラスについて

今日は生ゴミの出す日だ。Img7da7884378a
カラスが鳴いている。
カラスは人々の間で、あまり好かれていないように見える。
生ゴミの出す日に生ゴミに寄ってきて、人間の食べ残しを漁って散らかしてゆく。
また、結構、獰猛なようだ。
カラスは頭も良いと聞く。

カラスもこの地球に生まれてきたからには、何らかの役割を果たしているのだと思う。
獰猛な生物なら、例えば、密林の中では虎が獰猛な生物として知られている。
でも、カラスの生息している場所は人間の環境に近い。
この「人間の環境に近い」ということが問題なのだと思う。
カラスが密林に生息していたら、今のカラスに対する私達のイメージはだいぶ異なったものだと思う。

つまり、カラスはだいぶ人間生活の影響を受けていると思う。
カラスにしてみても、「俺達だって生きるためにやっているのだ」と言うに違いないと思う。
また、カラスを見ていて、何となく、彼等の心が穏やかでないように気がする。
だから、カラスが悪いのではなく、人間生活の向上がカラスの救済になるかと考えてしまう。
「人間生活の向上」と言うよりも、人間の居住環境の質の向上だ。
カラスでなくても、野良犬や野良猫もカラスと同じような生活になってしまっている。

人間の生活でも、そんなに近代化していない飛鳥時代とか奈良時代とかには、そこまでカラスが嫌われた存在ではなかったと思う。
『七つの子(ななつのこ)』という歌がある。
野口雨情が作詞、本居長世が作曲した童謡で、以下に歌の一番を書き出しておきたい。

「烏(からす) なぜ啼くの
烏は山に
可愛い七つの
子があるからよ」

このようにカラスに対する温かく思いやりのある雰囲気の歌もあるから、カラスも見捨てたものではないと思う。
だから、人間が知恵を出して、人間の居住環境の向上とカラスに対する思いやりの向上に励めば、人間のカラスに対するイメージも変わってくると思う。

         坂本 誠

霊感の泉

    霊感の泉

暗い暗い森の中を
深い深い茂みの中を
見えない糸に導かれ
聞こえないささやきに誘われて
奥へ奥へと進みこむ。
やがて泉が見えてくる。
それはほのかな匂いを漂わせ
自らの力で輝き
森の中にやわらかな光を放つ。
泉の水が丘のようにふくれあがる。
水がひとしずく またひとしずく
弧を描きながら僕に向かって落ちてくる。
両の手をさしだし
そのしずくを受け止めて
僕の胸に抱きしめる。
光る泉の水がわかたれて
煙りのように僕の胸からあふれでる。
青の煙りからは知性の詩が
緑の煙りからは調和の詩が
赤の煙りからは情熱の詩が生まれいずる。
この泉こそは霊感の泉。
心の奥底のはるかな奥底にひそむ霊感の泉。

                  詩集『赤い炎と青い水』より

       坂本 誠

Powered by Six Apart
フォトアルバム