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2010年4月

2010年4月24日 (土)

四百十三: 鏡

何かを考え続けている人は、やはり考え続けているだけあって、真剣な顔つきをしていることに私達は気が付きます。
たいてい、その顔は世間的な言葉で言ったら、苦虫を噛みつぶしているような顔をしているかと思います。
ですから、始終、考え事をしていたり、強い悩みを等を抱えている人は一日の内のごく短い時間に鏡を覗き込んで、にっこりと笑う癖を付けてみるのも良いかもしれません。
にっこりと笑う練習をするわけです。

人は笑うような出来事があって、普通は笑いますが笑うためだけに笑うというのも、少し笑えるような話です。
また、何かを考え続けている人は、いつの日にが幸せな笑顔を手に入れるために始終、苦虫を噛みつぶしたような仏頂面をしているというのも、ちょっと笑える話です。

         坂本 誠

            形         

相手の身体を抱きしめない
愛もある。

            坂本  誠

四百十四: 別れについて

別れも大事だ。
普通、人は別れを忌み嫌う。
だけど、死ぬ時には全てのものに対して、執着を断ち切らないといけない。
我が子の笑顔や我が家の猫とも別れないといけない。
もし、死、つまり、別れる前に愚痴や嫉みや苦しみ事が発生していたら、それは執着というものだろう。
執着というものも一つの愛だとわかる。

例えば、死ぬ間際の人が自分の子供や孫のことを心配していたりすることはよくある。
はたから見たら、どう考えても、その人の孫の生活に心配事は無いのに、その人は
    「孫の笑顔が見れないから、それが私は残念でならない。だから死にたくない。死にたくない。私が死んだ後も孫の事が心配だ。死ねない」
と言って、苦しむ人も多いと聞く。
孫や子供への愛が、逆にその人の忌わの際を苦しめているのだ。
結局、孫の笑顔をどこまでも永遠に見続けないといけなくなり、結果、いつまでも別れることが出来ない。
そして、「孫や曾孫の笑顔を見続ける行為」というものも際限が無いことに気付くだろう(人は自分の子供の死や結婚などに出会うと、つまり、別れという儀式に対して寛容になれるのかもしれない)。

また、その人が自分の子供を持っていても、
    「なぜ、お前は結婚しないのか? 私は不幸だ。私は死ねん」
と言って、苦しんでいる忌わの際の人もいるだろう。
また、自分の子供が結婚していても、
    「なぜ、お前達(夫婦)の間には子供がいないのか? 私は私の孫の顔を見れん。私は不幸だ。私は死ねん」
と言って、苦しんでいる忌わの際の人もいるだろう。
また、自分の孫を持っていても、
    「なぜ、お前(孫)は有名大学に入っていないのか? 私は不幸だ。私は死ねん」
と言って、苦しんでいる忌わの際の人もいるだろう。

結果、その人は「成仏」というものが出来ないような人になるだろう。
死ぬ間際まで苦しむ訳だ。
つまりそれは不幸の姿だ。
愛そのものが苦しみの原因となっている。
このような状況を呈することになると、じっくりと考えてみたら、人は自分の子供や孫を授からない方が幸せなのかも知れない。
そんな側面を考えることが出来ると思う。

愛は大事だということもわかるけれど、このような側面もあり、人は手ぶらになる心構えも必要かと思う。
深すぎる愛が罪になる時もあるかと思う。

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追伸:
追伸です。上の文章を見て再び思ったことです。
たいがいの人は、今現在の幸福な人生より、30年後や40年後の自分の人生が不幸なものと仮想して、その未来における仮想した状態が不幸なものと仮定して、今現在の生活を不幸なものとしていることが多いようです。

例えば、有名大学を卒業して、有名企業に入った方がいても、自分の約40年後の退職金や年金の多寡を想定して、今現在の生活が不幸になっている人もいます。
いったい、幸福とは何を使って出来ているのでしょうか。
私は自分の心のあり方次第であると思いますが、色々な人の物差しもあるでしょうから、ここでは、ちょっとだけ触れておくことにしました。

         坂本 誠

君のために

                    君のために

 言葉の海につかって
 君にささげたい
 詩を編む。

 手を触れずに
 水滴の一つ一つを
 すくってゆく。

 僕の手の中で 言葉が鳥になって
 君に向かって飛んでゆく。
 やさしさを伝えるために。

 僕の心はチリヂリになりながら
 同時に
 君の中で一つになってゆく。

 君は僕の外にいた。
 僕は君の外にいた。
 だけど僕は今 君の心の中に入る。

 君も来いよ。
 僕の中へ。
 僕の心の中へ。


            
詩集『光と闇の唄』より
            坂本 誠

矛盾

            矛盾       
            
「怒るな」
という命令の中には
すでに矛盾が含まれている。
            
            坂本  誠

四百十一: アスペルガー症候群について

2010年4月21日にNHKのクローズアップ現代で「"アスペルガー"いま企業で」という番組が放映されました。
私も偶然、それを見ました。
「アスペルガー症候群」について知らない人のためにこれから、その症状の概要を書いておきます。
アスペルガー症候群の人の主な症状は他人のニュアンスや冗談がわかりません。
そして、一度に二つの事が出来なかったりします。
たとえば、手作業をしながら、人と会話することです。
また、一面では高い能力を示したりもします。
しかし、やはり人付き合いが苦手なので、社会から孤立していきます。

私はアスペルガー症候群の人の主な症状を書いただけで、まだ他に何かの症状があるかもしれません。
番組の中で紹介されていたのですが、アスペルガー症候群の人は「宇宙人だ」と喩えられたりして、悩みを抱えるそうです。
この「アスペルガー症候群の人は宇宙人」という表現が面白いので、以降も使わせてもらいます。
アスペルガー症候群と診断される人は増えているそうです。
アスペルガー症候群は脳の病気だと言われているそうですから、アスペルガー症候群の人は、自分を病気だと思ったりするわけです。

アスペルガー症候群の人の一番の悩みは、悩みの冒頭で挙げた「他人のニュアンスや冗談がわからない」ということでしょう。
これが一番の問題でしょう。
喩えて言うのであって、アスペルガー症候群の方々を悪く表現するわけではありませんが、アスペルガー症候群の人を宇宙人と喩えましょう。
そして、そうですね、名前が思いつかないから、仮に、その方をセザールさんとでも名付けましょう。
そして、アスペルガー症候群を持たない正常な方を地球人の太郎さんと名付けましょう。

セザールさんが太郎さんを見たら、太郎さんは心で思っていることと喋っている内容が違っていたりするのです。
なぜならば、ジョークやユーモアというのは、一種の嘘が多かったりしますからね。
セザールさんにしてみたら、太郎さんは二つの顔を持っているわけです。
ですから、セザールさんは判断に苦しむわけです。
その太郎さんのような人が実社会に多いわけです。
企業などが特にそうでしょう。
テレビも伝えていましたが、企業の中では上司や部下がいて、調和を重んじるため、自分の心に嘘をつかないといけない場面が多々あるからです。
仮の話ですが、太郎さんは心の中では上司を憎んでいたりしますが、ご機嫌を取るために、上司に笑顔を見せていたりするのです。
また、太郎さんは心の中では部下を愛していたりしますが、オフィスの中の雰囲気を保つために、わざときつく叱っていたりもするからです。
セザールさんは太郎さんを見て、以下のように思うでしょう。
「太郎さんは二重人格だ」と。
または「顔で笑って、心で泣く」でしょうか。
人間の精神は身体の内部にありますが、その太郎さんの精神の内容と太郎さんの口から出る言葉が一致していないのです。
確かに、見ようによっては「太郎さんの語る言葉に偽りあり」とも言えるでしょう。
そして、太郎さんの他にも、地球人の次郎さんや三郎さんも、その他、多くの地球人がそうやって、全体の調和を保ち続けてきたというわけです。

私、坂本誠は上のセザールさんではないのですが、純粋に全く、今までの自分の持っている先見を捨てて、上の例を見直して見ました。
私はセザールさんになったつもりで、とっぷりと考えてみました。
以下にその考えを書きます。
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セザールさんは地球の方々のシステムに気付くのです。
地球にはたくさんの企業が存在します。
そして、企業同士が闘いあっているのに気付くでしょう。
Aという企業とBという企業が闘っています。
企業が城で、社長が昔で言う殿様で、社員がサムライです。
企業同士が、つまり人同士のグループが闘い合うためには、まず、組織の調和が重んじられるのです。
昔の戦国時代でも、一番上の殿様の指示が絶対です。
そうしなければ、城が倒れて、自分達、全員が殺されたりするからです。
つまり、地球には長い間の人々同士の争いにより、人々同士の階層化が進み、自由な雰囲気が圧殺されてきたと思うのです。
現代でも、戦国時代とは変わったものの、企業同士の闘争や戦争のために人々同士の激しい階層化がなされているのに気付くのです。
つまり、いまだに人々は争っていると私は思うのです。
何が原因で人々は争っているのかと私が考えたことまでは書かないことにします。

ですから、会社のオフィスの中でも組織化、階層化が進んでおり、そのグループを用いて、見えない敵、つまり、他の企業と闘っているのです。
オフィスの椅子に座っているものの、現実は闘っていますから、自分達の所属している会社の中で組織化、階層化がなされていると思うのです。
「人間は平等だ」とは教えられてきた筈ですが、オフィスの中ではかなりこの言葉の状態とも違っておりますから、それにセザールさんは苦しむと思うのです。
確かにある程度の組織の階層はあっても良いでしょうが、セザールさんにしてみれば、あまりにも人々の間で階層化がなされており、それに苦しんでいるかと思うのです。

地球では争いごとが多いから、地球の人は、自分の心と言動が不一致な状態を作り出した、とセザールさんは知るかもしれません。
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先に私は「アスペルガー症候群と診断される人は増えているそうです」と書きました。
つまり、このエッセイを読まれている方は、このまま、宇宙人が地球に増えてくるような感じがしないでしょうか。
地球の未来はどうなるかはわからないのですが、もし、アスペルガー症候群の方々が地球に増えたとしましょう。
自分の心に嘘を言えない人間が増えるわけです。
心と言葉が完全に一致した世界が見えてくるでしょう。
そして、アスペルガー症候群の方々の数が増えて、今現代に正常と見なされている人の数が少なくなったら、その少なくなった人の方が異常者になるわけです。
つまり、「自分の心と言動が不一致な状態」の人々の方が病を持たれている、と見なせるでしょう。
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しかし、アスペルガーの方にも問題があるかと思います。
普通の人の語る言葉やしぐさには「比喩」が含まれている、ということです。
ジョークやユーモアには比喩が含まれています。
例えば、「飛行機は鳥のようだ」と「ようだ」を付けたら、直喩になりますから、アスペルガーの方は「この文章は比喩が使われている比喩表現だ」とわかるでしょう。
しかし、言葉の中には「暗喩」という表現があります。
上の喩えを暗喩に直すと「飛行機は鳥だ」という表現になります。
暗喩はだいぶ凝った表現なので、この「飛行機は鳥だ」とアスペルガーの方が聞いたら、これは大分、困るでしょう。
実際、飛行機は鳥ではないのですから。

オフィスの中で、上司から「あなたはバカだ」と強く叱られたりする時もあるでしょう。
実際は、バカではないのですが、「あなたはバカのように成績が低い」と言われたら、アスペルガーの方は「自分はバカではないが、成績が悪いのだ」と理解できるでしょう。

だから、私が思うに、アスペルガーの方と現代人が共存して行く一つの道は、暗喩表現を少なくした文章で語らないといけないかと思うのです。

         坂本 誠

仏の手

                              仏の手

星が全ての方位に
光のとげを放つように、
仏の胸の中心から
光がほとばしる。

無数の光のとげが
無数の手になっている。
その手は丸い。
光が手なのか?
手が光なのか?

仏が振り向く時、
その無数の手は、
あおい風になびかれて、
さざめく草原のよう。

仏の無数の手は
宇宙の隅々まで伸びる。
仏の丸い手は
僕たち全ての、
生あるものの全ての、
心に触れて、
ぬくもりを残してゆく。

            詩集『光と闇の唄』より
            坂本 誠

四百九: 些細なこと

些細なことが積もり積もって、大きなことになることがあります。
よく私達の日常生活を見てみると、その些細なことが数多くあって、それらが積もり積もって、大きなことになり、私達の日常の阻害点となっていることに気付きます。
「些細なこともあってはならないのか」と考えると、ちょっと怖くなります。

         坂本 誠

美しさ

            美しさ      

自分の
女の美しさが
永遠に続いていたら、

男は
今のその女の美しさを
感じるだろうか。

   
            坂本  誠

四百八: 休憩について

人は一日の内に休憩の時間を与えられている。
普通の人のことについて、考えてみると、一日八時間が労働時間で、八時間が睡眠時間で、残りの八時間が自由な余暇として扱える筈だから、人は八時間も休めることになる。
しかし、人は一日の内に八時間も休憩をしている感覚を味わえていないと思う。
なぜならば、その休憩時間にも、大抵は自分の仕事について考えていることが多いからだ。
家に帰ってきても職場のことや自分の仕事のことを考えている人は多いと思う。
結局、かなりの数の人が八時間の休憩時間を持っている気になれないと思う。
通勤時間も何らかのストレスを感じてしまうだろうから、人の一日の休憩時間とはかなり少ないと思う。
しかし、睡眠時間だけは私達は完全に外部の世界と接触を断たれているから、この時間だけは休憩時間と言えると思う。
本当の意味の休憩時間とは瞑想の時間に似ているかと思う。
大量のマスメディアを視聴していれば、外部の情報がどんどん自分の頭に流入してきて自分の内部にある本当の己自身に到達することが難しくなるかと思う。
また、その時間に今日一日の反省も出来ると思う。

         坂本 誠

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