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2010年3月

2010年3月27日 (土)

紫と富士

            紫と富士               
            
            
晴天の夕暮れに
はぐれ雲が  流れ 
静かに  富士の山に重なる。

雲の色が  赤から紫へ
紫から灰の色へと
移りゆく。

知る人も無い
空の紫が
富士に  そっと  そえられる。

            坂本誠 

三百八十四: 珈琲について

私も珈琲が好きです。
昔は珈琲を飲み過ぎていたのですが、今は一日に数杯です。
やはり、珈琲を飲み過ぎても身体に良くないでしょう。
お酒のようなものです。
しかし、世の中に珈琲が無いとさぞかし、つまらない世界になると思うのです。
お酒も珈琲も一輪の花のような気がするのです。

身体が疲れたり、頭が疲れたりすることは誰にでもあります。
そんな時、品質の良い珈琲の香りを嗅いだりすると、それだけでも頭がスッキリします。
飲んだ後の清涼感も爽やかです。

潤いの一時。

やはり、一輪の花を見ているかのようです。
逆を言えば、一日何杯も何杯も飲んでいたら、珈琲を飲んだ後の爽快感が無くなり、かえってつまらなくなります。
珈琲は黒百合のような黒い花なのかもしれません。
今から、その花にキッスを。20100326071944

         坂本 誠

気流

                気流
               
               
大きな流れの中にいる。
下流を見ている。
陽が落ちるので、
流れが赤々と染まっている。

光る玉が浮き、明滅している。
流れが奏でる  大きな音楽が聞こえる。
その音楽は  どことなく悲しみを帯びている。

高度一万メートルの
成層圏の中で
一羽の鳥が飛び続けている。

                坂本誠

三百八十三: 雨の日

雨の日というものは、なかなか良い思いを抱きにくいと私は思います。
日光がさんさんと降り注ぐ晴天の日ならば、心の奥底まで太陽のちからが入り込むような気がして、良い思いを抱きやすく感じます。
雨を見ていて私が感じることは、やはり悲しみです。
人も悲しいときに涙が出ますが、地球が悲しい時に雨を降らせているのかもしれません。
当然、雨の降らない場所は砂漠ですから、ある程度、雨のある地域の上に人は暮らしています。
雨の全く降らない地域の人は、雨の降る地域の人が羨ましいかと思います。
私は砂漠に行ったことが無いから、その辺はよくわからないのですが、砂漠地帯では「恵みの雨」と呼ばれて、逆に雨が好まれていることでしょう。

地球という星自体に喜怒哀楽があるとするならば、身近に感じるところでは、天候でしょう。
晴れの日が笑顔、雨の日が泣き顔でしょう。
怒りについては台風や竜巻等が怒りの表情と言えるでしょう。
雨の日は私の気のせいか、多くの人の心も曇るようです。
長雨が続けば、植物は光合成が不活発になり、不良の作物を収穫することになります。
人間にも光合成に似たような機能があります。
長時間、日光に当たらない肌はどことなくおかしくなってゆきます。
ビタミンDが欠乏して、骨の発育に異常を与え、くる病を引き起こしたりします。
くる病になると、人は悲しむことでしょう。
だから、地球の表情がやがて人の表情につながってゆくことでしょう。
不思議なものです。20100324161441

         坂本 誠

コマーシャル

            コマーシャル       

多くの人々の間を
疲れ歩いて、部屋に帰って、
テレビを入れたら
三十秒間だけ
自然の懐に抱かれた。
機械の箱の中から
大自然が私に  手を差し伸べていた。Img7dad9488443

            坂本誠

三百七十七: 抵抗

私が何がしかの作品を生んで、それを表現しているのですが、時々、思い浮かぶことがあります。
もし、芸術家なり作家なりが全く、生活に事足りて、何の悩みも無く、つまり、退屈の状態だったら、何かの作品を生んだり、それらを表現しようとするだろうか? と。
逆を言えば、日々の苦しみがあるから、何とかして、逃避しようとして、美しいものを手に入れようとする努力が作品を生み出そうとしていると思うのです。
また、日々の苦しみを克服しようとするから、その克服のための作品が生まれていると思うのです。
つまり、何らかの抵抗が人を育てようとしているのに気付くのです。
樹木の生長にも風が必要だと聞きます。
もし、地球という星が全く抵抗の無い生活、つまり、完全に退屈な状態だと、地球の上のありとあらゆる作品はどのようなものが生まれていたのか、逆に見ものです。
詩、小説、絵画、評論、思想、建築物がどのような作品になっていたかと想像するのです。
建築物、つまり、家だって、人を雨や風という抵抗から守るための産物です。
しかし、退屈という状態も人に対する一つの抵抗と言えるでしょう。
だから、人の生み出したものはその退屈という苦しみをいかにして、克服するか、ということがメインテーマとなった作品になっていたでしょう。

         坂本 誠

三百八十二: 不安について

不安を抱く人は多いと思う。
「何が不安なのか?」と考えてみると、10年先や20年先の自分の状態を不幸なものである、と仮定した結果、その思いが否定的なものであるから、今現在の自分が不幸に陥っている人が多いことに気付く。
この状態が不安の状態だと言えると思う。
20年先や30年先の自分の状態がマイナスのものだと仮定して、今現在の自分が不幸である、ということなのだから、本末転倒のような気がする。
人は一週間先に死んでしまうこともある。
60歳以降にもらえる年金の額を心配している人も多いが、60歳以上に自分が生きているかどうかはわからない。
現に私の知人も60歳になる前に死んだ。
だから、生前に納め続けた年金はその人のものにならなかった。
かと言って、完全に未来というものは定まっていないので、未来に対する予測を立てて、今現在の行動を起こした方が良いと思う。

逆を考えると、未来の不安に苦しめられている人は、しっかりした計画を10年前、20年前に立てていなかったように私には思える。
10年前に立てた生活の計画の基に生活をしていれば、ある程度のしっかりした道のりが作られているから、今現在の自分の状態がその計画から、どれだけ外れているか、またどれだけ的を得ているか、反省と成功の確認が出来る。
10年前、20年前に計画を立てた人をAさん、立てていなかった人をBさんとしよう。
Aさんの方はしっかりとした足どりで人生の上を歩いているから、今現在の時点での目で見て、その道筋がくっきりしていると思う。
ところが、Bさんの方は計画を立てていなかったから、その道筋はうっすらとしていると思う。
つまり、その「うっすら」具合が不安の程度になると思う。
そして、その後のAさんの10年後とBさんの10年後を考えてみよう。
やはり、上と同じ結果になっているかと思う。

だから、未来の不安に悩まされているという人は自分の過去を振り返ってみた方が良いと思う。
計画という言葉は大げさだから、目的という言葉に代えておくけれど、Bさんは10年前にはっきりした目的を持っていなかった。
だから、今の時点でその過去の目的に対して、成功の具合も確認できないし、反省すべき箇所も見つけられない。
うっすらとした道のりだ。
目的がはっきりしていないから、今現在の自分の状態もはっきりしていないだろう。
今現在の自分の状態もはっきりしていないということも、例えば、地図の上で「自分は今どこにいるのか?」がわからない状態だから、これもやはり不安の状態だろう。
そして、この状態で、10年後、20年後の漠然とした状態を考えているのだから、大いに不安に悩まされるだろう。
だから、不安に悩まされている人は目的がはっきりしているかどうかを自らの胸に尋ねてみた方が良いと思う。
単純に「10年後に幸せだったら、それで良い」という人もいるかも知れないけど、幸せというものにも様々な状態があるからだ。
職業とか、結婚とか、出産とか、地位とか、数え上げたら、キリが無い。
もし、「10年後に幸せだったら、それで良い」という人に周りの人が助力をしようと思っても、どのように助力をしたら良いか、雲をつかむような話で、かえってそのような依頼をされたら、大方の人は困るだろう。
「おカネさえたくさんあれば良い」という目的も難しいだろう。
これだと、自分の幸せの度数がおカネの数値によって、乱高下する。
給料日だけが幸福の日で、あとはおカネが減り続けるから、給料日以外は全て不幸の日になる。
世の中、会社の社長を羨ましく思う人も多いと思う。
給与が高くて、他人に対する指示権も強い。
だけど、意外に幸せな人は少ないと思う。
例えば、工場の社長だったら、工場の中で稼動させる高額な機械を買わないといけない。
先行投資というものだ。
つまり、高額な機械を買うので、最初に損をする。
そして、製品を作って、後でおカネを回収する。
学資というものも同じで、高校や大学に学資を納めて、技術等を学んだ後で、社会に出て学資に出した分のおカネを回収する。
少し、話が横に反れてしまったけど、10年後の不安に今苦しんでいるという人は10年前の自分の姿を振り返ってみた方が良いと思う。
その10年前の自分が「10年後の自分を想像することによって不安だ」と思っていなかったか、確認した方が良いかと思う。
その人は10年後の自分の姿を想像すると、その10年後に至るまでの自分の道筋、つまり、自分の生活の方針等がうっすらとしていると思う。

         坂本 誠

三百八十: 芥川龍之介さんについて

まず、亡くなられた芥川龍之介さんのご冥福をお祈りします。

今日も日が暮れようとしています。
そして、曇った日です。
私は学生の頃からよく読んでいた芥川龍之介さんの人生の後期の小説を、ふと読みたくなり、本棚から、その短編小説集を引っぱってきて、読み始めました。

曇った日と芥川さんはなぜかよく似合うような気がするのです。
「歯車」という作品を読んでみますと、奇妙な偶然の一致が続き、芥川さんを不安と恐怖に追いやっています。
その不安と恐怖が美しい文章で書かれています。
ですから、死の間際まで芥川さんは芸術家であったことがわかります。
この点だけは芥川さんも満足していると思うのです。
やはり芥川さんの文章を読んでいると、北欧の画家のエドヴァルド・ムンクを私に連想させます。

芥川さんの自殺の前はかなり精神的に苦しんでいます。
はたから見ていて、可哀想です。
芥川さんの年譜も読んでみるのですが、あまり良くない条件が重なっているようです。
芥川さんは眠るために睡眠薬を飲んでいるのですが、凄い罪悪感があるようです。
現代だと、普通の薬局にも市販の軽い睡眠薬が売られていますから、飲みたい人は飲んで寝ればいいから、人々の間であまり罪悪感が少ないかもしれません。
また、芥川さんの実母の心の病は芥川さんが生まれてまもない頃だったから、彼の人間育成に大きな影響を与えたと思うのです。

小説家というものは、話の筋を作らなくてはなりません。
現在、書店に並んでいる小説のほとんどが、善と悪が闘ったり、ないしは主人公が苦しみと闘っている筋が多いことに気付きます。
つまり、小説家は心の内部で善と悪が格闘していたり、異常な困難と闘っています。
そのmind warに敗れた時、小説家はきっと自ら命を絶ってしまうでしょう。
ですから、小説家はまず精神的に強くならなくてはいけないと思います。
物語には「喜劇」というジャンルもありますが、巷の本屋さんにあまり置いていません。

それに芥川さんの初期の頃は創作小説が多く、後期になるにつれて、自らの生活を語ったものが多くなります。
つまり、本人のプライベートな生活を語ったものが多くなります。
人は隠し事が多いと、生活をしにくくなると思います。
逆を言えば、誰に見せても恥ずかしくない生活を送っていれば、自分の生活を書いても、恥ずかしくないので、道の真ん中を堂々と歩いてゆけるでしょう。
それはどんな人でも最低限のプライベートな面は守る必要はあるでしょうから、「何もかもひけらかす」というのは、逆に社会規範を乱すから、これはレベルの問題になるでしょう。
しかし、隠し事が多いと次第に人は生きるのが苦しくなります。
だから、悪いことをしない方が良いと思うのです。
「隠せ、隠せ」という心で生きていると人は次第に後ろ暗い生活を送るようになります。
芥川さんの場合は「世のタブー」とされているものを持っていたような気がします。
それは芥川さん自身ではなく、芥川さんの周囲に現れたようです。
これは時代背景的なものが多いような気がするのです。

画家のエドヴァルド・ムンクの方は後年、自分の苦しみを克服したと思うのです。
その証拠には「太陽」という作品があります。
絵の中に太陽が輝いています。
画家の心が絵に現れたと思うのです。
芥川さんにもそうなって欲しかったと思います。

日本の作家では川端康成さんも自ら死なれました。
しかし、芥川さんの死と川端さんの死の雰囲気は大分、違っていると私は思うのです。
川端さんの方は老齢ということも手伝って、ある程度、安らかに死んでいるような気が私にはするのです。
また、川端さんの作品を読んでも、激しい懊悩が少ないように私は感じるのです。
川端さんの作品はどちらかというと、自らの生活を書き綴ったようなものが多いように見受けられるのです。
だから、その分、心に嘘やわだかまりが少ないように感じるのです。

芥川さんが亡くなられて、80年近い歳月が過ぎています。
多くの人々が芥川さんの作品を読んで、感動し続けています。
私自身もその一人でした。
そして、芥川さん自身の人生が一つの小説であることに気付くのです。
そして、全ての人が自分自身の、たった一つの小説を書いていることに気付くのです。

亡くなられて、長い月日が経っていますが、芥川さんのご冥福を心よりお祈りします。20100319090637

         坂本 誠

船出

 船出しよう。
 二人で船出しよう。
 この世の外へゆこう。

 君と二人でいる時
 僕と君は一つの船。
 虹で造られた帆船。

 君と二人でいる時
 僕たちの間に
 音楽が漂っている。

 その音楽の上に
 虹の帆船を
 浮かべよう。

 銀の風に煽られて
 金の糸に操られて
 青い空の上を どこまでも流れてゆこう。

 過去の悔いも、
 未来の憂いも、
 現〔うつつ〕の苦しみも、
 透いた空気の底に
 沈んでいる。

 音の上を滑ってゆこう。
 永遠の未来をすりぬけ
 無限の過去にたどりつくために
 何もなかったあの時を目指して
 船出しよう。

                  詩集『光と闇の唄』より

                 坂本 誠

三百八十一: 反省と自然

やはり、反省は難しいと思います。
自分で自分を他人の目を使って見ることが出来ず、そして、その目で判断することが難しいからだと思います。
「岡目八目」とは自分の欠点などが見えないことを意味しますから、この状態だと、他人の指摘などが、自分の反省点になり、それを使って、自分の反省が進むと思うのです。
しかし、周囲の人の意見自体が間違っている時もあります。
また、自分で自分を見ても、「この部分は明らかに自分の欠点だ」と捉えているのに、うまく、その欠点をカバーすることが難しい時があります。
人にはそれぞれの個性があり、その個性は長所であると同時に欠点とも言える時もあるからです。
つまり、長所そのものが欠点とも言えるからです。
そして、ある人の欠点も周囲の人の目から見たら、長所になると言えるでしょう。

やはり、反省における自力の限界というのがあるのを否めません。
ある程度、他力が必要になってくるかと思うのです。
思うに、何かと煮詰まった時は、大自然の美しい風景を見るのが一番だと思うのです。
自然の美しい風景は無条件に人を癒します。20100316105821_2
それに美しい風景というのは、まるで時が止まっているかのように感じるのです。
山を見ても、普通、何万年も同じ姿をしていると思うのです。
川や海にしても、時々は荒れる事もありますけど、普通、落ち着いている時の姿を見ると、悠久の時の流れを感じることができます。
美しい自然を見ると、一歩立ち止まれます。
その心の立ち止まった状態で、人は己の進むべき点と引くべき点を掴みやすくなるかも知れません。

また気付くのですが、どんなに良い人や悪い人でも、関係なく公平に自然の美しさに触れられるのに気付きます。
また、その美しさはほとんどは無料で公開されています。
人間の都合によって、有料とされている場所もありますが、自然そのものは黙って、無料で公開し続けています。
自然は無料でその美しさを公開しているのに、その美しさを使って、人が有料としているのも、少しおかしなものを感じます。

         坂本 誠

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