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2010年2月27日 (土)

三百三十六: 性について

「性」と書くと、顔がニヤケる人もいるかも知れませんが、ここではだいぶ真面目に書きました。
どんな人も母から生まれており、つまり、性行為があったことが示されています。
性行為には喜びもあるでしょうけど、何かしら、恐ろしい面があることは誰も否定できないと思います。
女性が妊婦になって出産する時、出産失敗のために、その妊婦が死ぬ場合もあります。
また、母胎が助かっても、死産に終わる場合もあります。
だから、人間が母の身体から出てくる時は、実は人生における最初の最大難関でしょう。
これに比べれば、学校入学テストの難関はまだ軽い方でしょう。
また女性に限らず、男性にしても一児の父ともなれば、その子の将来にわたる責任を取らなくてはならないでしょう。
単純に妊娠したから、簡単に堕胎するというのは問題があるでしょう。
「気にしない」と口で言う人もいるかも知れませんが、心の奥底に嘘をついているかと思います。
また、何かの葛藤を持っているかも知れません。

しかし、だからと言って、完全に性を否定する訳でもないです。
男女の愛の時間がもし、人間に授けられていなければ、人間は酒や何かの放蕩に走っているでしょう。
この性の遊びは遊びとも言いがたいものがあります。
人間が人間を生み出す行為だから一つの社会がそこに誕生します。
父と母と子です。
その3人で一つの社会を構成して、一家の中で父なら父の役割、母なら母の役割、子なら子の役割を果たすことが前提とされています。
ですので、性行為の遊びと言うのは、やはり、遊びとは言いがたいです。
つまり、性行為が基本となって、社会を作り出しています。
また性行為があるから、男女の心の中の愛情も深くなります。
また、誰もが思うことですが、恥ずかしいスタイルを取らされていると内心、自覚しているかと思います。
どんな王、偉人もこの恥ずかしいスタイルを取らされます。
つまり、誰もがへりくだることを要求されます。
つまり、謙虚さを学ばされます。

食べること、排泄すること、自己を生き延びさせようとする意欲など、考えてみたら、まるで他の誰かがプログラムして、人間の心に与えた何かのような気がします(理性や知性だって、考えてみたら不思議なものです。「なぜ、人間は考えるのか?」と問われても、返答に窮する人は多いでしょう。きっと)。

少し話が横道に反れましたが、一人の人間が、もし、今ここに誕生したとしましょう。
その赤ちゃんに、ずっとブドウ糖を注射し続ければ、理屈から言えば、その赤ちゃんは大人になる筈です。
だから、普通の赤ちゃんは本能によって、母の乳首を求めようとしますが、この乳首を求める行為は必要が無いということになります。
また、成人しても一切口から食べ物を補給しなくても良い筈です。
しかし、私は今まで、「生まれてから、ずっと私はブドウ糖注射で生きてきた」という人の存在を聞いたことが無いです。
つまり、人間はほぼ必ず自動的に口から栄養を補給して、自分の身体を作り続けています。
それと同じように、もし、二人の少年少女を無人島に連れて行き、その二人が水や食やその他の生活の便宜を確保できた上で、かつ性行為に関する情報を全く知らされなくても、やはり、性行為を行って、子供を作るでしょう。
実際の私達の社会では発達したマスメディアや何かで「生き物には性行為という行動を持っている」と未然に知らされています。
しかし、普通の犬や猫やその他の生き物は、マスメディアによる情報に一切頼ること無く、性行為を行っています。
だから、人間もその例外では無く、全く、性の情報が遮断された世界に行っても、性行為をなすでしょう。

だから、性行為自体は笑われるべき行為ではないでしょう。
やはり、この世界を作り上げたものの、驚くべき不思議な何かを垣間見ているような気がします。

私にはわからない。
この世を作った存在が性行為を生き物に与えた。
この性行為の欲求に苦しめられなければ、生き物はどれほど幸せなことだろう?
しかし、もしこの世から性行為の欲求に消えてしまえば、生き物はどれほど不幸せなことだろう?
全く相反する矛盾を兼ね備えている理想を生き物に与えているこの世界を作られた方の深い真意がとても推測できない。
また、推測したとしても、それはやはり邪推になるだろう。

         坂本誠

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