« 2009年5月 | メイン | 2009年7月 »

2009年6月

2009年6月30日 (火)

アフリカのサバンナにて

乾いた草原に
ウマやサイやトラやゾウがいる。
命があふれている。
トリの鳴き声が
キリマンジャロの白い峰を  越えてゆきそうだ。

多くの命が激しく動き続けているのに、
時の流れを遅く感じるのは
大地のふところの豊かさのためだろうか。

多くの人々が  微笑みながら  太陽に向かって
ジャンプをし続けている。
頭上の太陽と  足元の大地への感謝と
自分達の喜びを現そうとしているかのようだ。
人々の陰と  太陽の光が交錯し続ける。
光る林。
アフリカの光が明滅し続ける。

                    坂本誠

2009年6月29日 (月)

小さな太陽

川面(かわも)に太陽が映っている。
川に落ちてきた  小さな太陽。
水の流れと共に
太陽の姿が揺れ続けている。
踊っているかのように。
こんな所にも
私達に  光を与え続ける太陽がいる。

Img7d91a06ca4cb 

                    坂本誠

2009年6月27日 (土)

百三十三: 麻雀

麻雀は本当に奥行きが深くて、面白いゲームだと思います。Img7d9269f54dc2
「大金を賭けている悪のゲームだ」という感じになったらダメでしょうが、不思議で、かつ楽しいゲームです。

最近では「健康麻雀」と言って、金銭を賭けずに老人ホームなどで娯楽として用いられているらしいです。
と言うのも、頭を使ったり、手を使ったり、仲間で楽しむので認知障害を妨げます。
だから生活技能訓練の一種として、また治療の一環として、福祉施設や介護施設に導入されています。
人間は多少の刺激と競い合いの気持ちが治療には必要とされるからです。
人の安静のみが人の治療に有効なわけではないのは多くの人が知っていると思います。

しかし、やはり麻雀の醍醐味とはそのゲーム自体が全く人生の縮図みたいなものだと言う点にあると思います。
頭を使ったり、知恵を使わねばならない。
ないしは経験が必要です。
そうかと思うと、麻雀で全く経験や知恵が勝利のためには役立たない時もあります。
それだけではなく、勝ちに向かわず、積極的に「オリ(負け)」に向かわなくてはならない時もあります。
ツキというのもあります。
俗に言うツイている時は苦労しなくても、どんどん勝ってゆきます。
又、ツイていない時はあらん限りのちからを使っても勝てません。

麻雀は人生そのものと言っていいぐらいです。
つまり、一人の人間に課せられた運命と努力と出来事です。
普通、麻雀は4人で競うから、「卓」と呼ばれる世界の上で4人の人間の世相が交錯するのです。
「人間のようなゲーム」と形容するしかないです。
不思議なゲームです。

         坂本誠

2009年6月26日 (金)

百三十: ヘラクレス

私の住む街には大きな干潟がある。Img7d926caeb66f
その干潟には、沖に向かって長い漁道が突き出ている。
その漁道は満ち潮の時には、海に沈む。
だから良いタイミングで、その漁道に行けば、自分の周りが360度開けた空と眼下には広大な海が見渡せると言うベストポイントがある。

コンクリ-トの狭いビルの中で生活していれば、人間の心も狭くなるが、広大な風景の中に飛び込むと広大な心が養える。
また、何よりも巨大な自然の中に身を置けば、自らの小ささが身にしみてわかり、謙虚さを養うにも最適だ。

今日、私はこの海のその漁道に行ってきた。
晴れていて、風が強かった。
足元に広がり続ける海と、手に触れている筈の青空と、強い風を感じていたら、今、そこに巨大な竜巻が立ち上がっているかのように感じた。
と、同時にこの地球を持ち上げている、あの有名なヘラクレスの存在を感じた。
彼は巨大な山のような男だ。

Photo
         坂本誠

百四十七: キャパシティーと柵

人は能力の限界と実行できる範囲があるようです。Img7d92715e40e1
能力の限界等が実行の範囲を決定しているようです。
そして、実行の範囲が責任の範囲を決定しているようです。
---------------------------------------
動物を愛好する人は多いと思います。
当然、病院に連れて行く回数も多いでしょう。
また、現実に動物の命が多く救われているでしょう。

しかし、その人が自分の愛している動物とアフリカの難民の数多い場所に偶然、訪れたと仮定しましょう。
その人は、数多くの人命がまさにひどい病気と格闘していることに気付くでしょう。
そして、例えば、その来訪中に、自分の愛犬が重病にかかったとしましょう。
すると、その人は自分のおカネで、愛犬の命を救うべきでしょうか?
しかし、そのおカネで、目の前の病気に苦しむ大量の人間はかなり救われることには気付いているでしょうが、どちらにおカネを使うべきでしょうか?
もちろん、動物を愛する人ならば、人命を愛していることも間違いないでしょう。
普通、出来るだけ多くの命が救われる方向に我々は向かわないといけないからです。
その時、その人は深い問題を与えられるでしょう。
目の前の難民の人が貧しいのがいけないのでしょうか?

やがて、もう一段階、上の事が考えつくでしょう。
おカネの多寡によって、救える命と救えない命があるのに気付くでしょう。
おカネの多寡によって、命の軽重が決まってくるのだろうか? と気付くでしょう。
だから、経済力によって、能力の限界があることに気付くでしょう。

やがて、もう一段階、上の事が考えつくでしょう。
おカネのある無しによって、救える命と救えない命があるかもしれない。
しかし、どんな命でもいつしか終焉を迎える。
だから、もっと大きな視点で考えると、なぜ、存在には生と死があるのか? と気付くでしょう。
普通、人は考えても仕方が無いことは考えないものです。
この範疇は、神様の能力と責任だからです。

やがて、もう一段階、上の事が考えつくでしょう。
存在とは何か? 存在とは存在していていいのだろうか? またその存在は必要ないのか? でしょう。
例えば、神様が「この宇宙の存在は必要無い」と思えば、宇宙は消えるでしょう。
---------------------------------------
このように、色々と私達は考えることは出来ます。
しかし、考えることは自由ですが、それを実行する権限は、個々の存在に範囲があるでしょう。
会社の中では、社長には社長の権限、ないしは部長には部長の権限があり、部長は社長の権限を使用してはならないのと同じでしょう。
責任の範囲が明確にされているからです。
だから、部長や課長が
    「俺が社長だったら、こうするのに」
と考えることは自由だろうけど、実行する権利は与えられていません。

もし、課長が実行したら、失敗した時に多額の現金をどこから持ってくるか? ということもあります。
社長ならば、現金を所有していたりして、その失敗をまかなえることも出来るからです。

範囲の問題を考えないといけない時も多々あるでしょう。
---------------------------------------
人間一人ひとりに、与えられている環境があります。
まるで柵と言っていいでしょう。
その柵の内部で、いかに努力するか、しないかが結局問題になってくるでしょう。

何かの機会でアフリカの難民が日本に住む機会が出来たならば、アフリカの難民を悩ませている病気をあっという間に治せたりするでしょう。
また、私達が、1万年後の世界にタイムトリップしたならば、そこでは不死の技術が開発されているかもしれません。
(しかし、この世のありとあらゆる全ての悩みを解消する技術はまだ開発されていないでしょう。)

この柵の中で、一人一人の存在がいかに努力するか、また、生きて回るかが本当の問題でしょう。

         坂本誠

2009年6月24日 (水)

百四十八: 教師

世には小学校や中学校の先生や、教会の牧師や、お寺の僧侶など、様々な教師がいます。
2000年前のイエス・キリストは今でも人類における最大の教師と言えるかもしれません。
確かにイエスは神を深く愛していたし、多くの人々を愛していました。
しかし、現実には彼は多くの人々を叱っていたそうです。
周囲の人々は、こう思ったかもしれません。

「この人は私達を愛しているとは言っているが、私達を叱っている。私達を愛しているならば、私達を褒めるべきだろうに、その逆をしているのだから、私達を憎んでいるのではないのか?」
と。

現実に、このように周囲の人々が考えた結果、彼は十字架の上の人となりました。
ローマ帝国は最初、彼を慕う人々を迫害していました。
ところが時代が下って、やがて、彼を慕う人々が多くなり、ローマ帝国の皇帝がキリスト教を国教と認めました。
だから、それまで、隠れてキリスト教を信じていた人々が何の抵抗も無く「自分はキリストの教えを信じる」と言うことを簡単に言うようになりました。

つまり、

    「国と言う一大権威の機関が認めた」

と言うことが重要でしょう。
「国のお墨付き」の人物ならば、その人物が、たとえ私達に悪口雑言を浴びせかけていても、私達は、

    「ああ、これは私達を親身に叱ってくれているのだ」

と、有難く思うでしょう。

だから、普通の学校の教師は国から免許をもらっていますが、その人々が私達を叱っていても、私達は何の違和感も持たないでしょう。
又、現在の牧師や僧侶もこれと同じでしょう。
又、もし今現在、イエス・キリスト、その人が地上に現れて、私達を叱っても、私達は有難く思うでしょう。

だから、教師と言うものの威厳と言うものは、国などの一大機関が認めているかいないかが問題になるでしょう。

ところが、イエスにしても、モーゼにしても、仏陀にしても従来の何がしかの権威を崩して、新たな教えを広めないといけなかったので、時の権威者はよってたかって彼等を潰そうとしたのでしょう。
だから、この手の教師が現れるのは難しいでしょう。

日本でも政治家の坂本龍馬などは、ほぼ日本のトップと言える教師でしょう。
だけど、彼もそうでしたが、今の日本で「幕末の志士」と崇められている方達は、実は江戸幕府から見れば、完全な国賊でした。
だから、彼等は単純に殺されていきました。

教師と言うものも難しいものです。

         坂本誠

2009年6月23日 (火)

百四十六: 心と身体

身体のある一部分が病んでいる人は世に多いだろう。Img7d9267dd1637_3
それは取り立てて命にすぐ影響する訳ではない人も多々いるだろう。

しかし、随分気の持ちようによって、その部分が良くなったり、悪くなったりする。
「病は気から」とか「心と身体は密接に結びついている」とよく言われる。
多分、多くの人も経験していると思う。
取り立てて、僕が言うべきものではない。

僕が言いたいのは、ここでよく注意して見ると、「心」と「身体」という2箇所が、人間の内部に存在していることだ。
その2箇所の部分は、かなり近くに寄ってはいるが、「心」と「身体」という別個のものがあって、それらが人間の内部に存在していて、互いに影響を及ぼしあっている、と言うことだ。
これも、ある程度の人は経験しているかと思う。
しかし、かなり注意しないと、この2つの存在の離れている距離に気付かないかと思う。

単純に肉体の一部分の病を治したいのならば、その病の箇所に大量の薬を与えたり、治療をすれば治るが、これが心のあり方によって、個々の人に相違が発生している。
肉体の内部にあるDNA、つまり、体質の差によっても病の差はあるが、心の差と言うものもあることわかる。

だから、仮にAさんとBさんがいて、Aさんが病を持っているとしよう。
Aさんが自分の身体のその病をなかなか治せないとしよう。
そして、AさんとBさんの心の入れ替えが可能だとしよう。
そして、Bさんの心がAさんの身体に入ったとしよう。
すると病の深さにもよるが、Bさんの心がAさんの身体を治してしまうこともあるだろう。
又、この逆の場合も起こるだろう。

不思議だが、これはありえるだろう。
つまり、「心のちから」というものが厳然として存在すると言うことだろう。
そして、肉体と心の別個の存在を知らされる。

         坂本誠

2009年6月20日 (土)

百四十五: 夢(我が家の猫ベルの帰天_No11)

(ペットロスシリーズです。長く続きますので、何回かに分けています。)
-----------------------------
人でもペットでも、愛していた者が死ぬと、体力が落ちるものだ。
ベルが死んで一夜明けた。
しかし、僕は疲れていた。
生き物の死を看取ると、体重が減る、と聞いたことがあるが、本当だろう。
軽く朝食を取った後、疲労により、再び僕は眠った。
そして夢を見た。

その夢の中では、
近所の家でも、ある人が死んだのだ。
その家の少女が死んだのだ。
しかし、現実の世界にはその家には少女はいない。
そして、僕が自分の家で所用を済ましていると、その死んだ少女が我が家の中に入ってきたのだ。
どこから、どうやって入って来たのか、わからない。
しかし、実に可愛い少女だった。
そして所用を済ましている僕と家族に、実に楽しそうな笑顔を見せてくれた。
そして、我が家の中で、あちこち、うろついた後、これもどこからかわからないが、やはり家の外に出て行った。
僕も家族もその少女が、どこをうろつこうが、別に気にも留めなかった。
ここで僕の夢は覚めた。

今、思えば、あの少女はベルだったのかもしれない。

         坂本誠

百四十四: 帰天(我が家の猫ベルの帰天_No10)

(ペットロスシリーズです。長く続きますので、何回かに分けています。)
-----------------------------
夕刻にベルは死んだ。
最高に偉い猫だった。
生き物は死ぬ時には、痛みにも耐えなくてはならない。
見事にベルは耐えた。
素晴らしい猫だった。

僕はベルの歳を間違えていました。
16歳でした。

         坂本誠

百四十三: 愛(我が家の猫ベルの帰天_No9)

(ペットロスシリーズです。長く続きますので、何回かに分けています。)
-----------------------------
愛というものは不思議だ。
深すぎると執着になる。
それは、お互いが離れ合う時に、非常な苦しみになる。
普通の生活においては生き物同士は深く愛し合うべきだろう。
しかし、逆に愛を冷ます方法も必要になるだろう。

例えば、恋人同士が死別した後は、速やかにお互いが忘れた方がいい。
そのように愛を冷ます方法も必要になってくるだろう。

         坂本誠

Powered by Six Apart
フォトアルバム