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2009年5月

2009年5月31日 (日)

百十四: ブラブラ考えたこと

こんばんわ。
m(_ _)m

何か書くことが無いだろうかと思い、朝のジョギングコースを歩いていました。run
で、「なぜ、僕は何かを書いてみたいのだろうか?」と自問しました。
多分、書くことが楽しいから書いているのでしょう。
世の職業でプロライターの人も最初は漠然と書くことが楽しいから書いていたのでしょう。
どこかの本で読んだ記憶があるのですが、人間は余暇の時間をすごしている、その時でも人は何がしかをしていますが、それこそが、自分の真の姿だそうです。

「職業」と言う言葉が頭に浮かんだので、職業の事も考えて見ました。
最近は派遣労働の是非が世に問われています。
職業と言うものは、その人のカラーを示すものです。
しかし、実際、転職される方も多いです。
と言うのも、全ての職業と言うものは、一応、原則として、「自分の代わりがいる」筈です。
どんな仕事にしても、自分が退職をするその日が来るので、後任や引継ぎの人間がいます。
つまり、代わりがいるのです。
どんな特殊技術を持った人でもそうです。
なぜならば、世界でたった一人しか、所有していない技術をAさんが持っていたとしましょう。
すると、そのAさんが死んだ後は、その仕事を誰もすることが出来ないので、そのAさんの職種は、この世から永久に消えてしまうのです。
だから、多かれ少なかれの腕の違いはあるでしょうが、どんな、華々しい業務に就いていても、「自分の代わりは幾らでもいるのだ」と謙遜の気持ちを持たなくてはいけないでしょう。

しかし、間違ってもらいたくないのは、職業の代わりと言うのは、あるでしょうが、自分の人生の代わりと言うのは、これは存在しないと言うことです。
自分の持っていた過去の一瞬は、つまり、自分の人生ですけど、それの代換物は、この世には無いです。
仕事を切り替えていると、新たな仕事を学んだりするための、その分の時間のロスが発生します。
人によっては失敗も多々、味わうでしょう。
つまり、生活の安定を欠き、多くの人が生活の場を失うと、それは、つまり、社会の安定性を欠くでしょう。
なぜならば、「多くの人=(イコール)社会」だからです。

朝の陽射を浴びながら、このようなことを考えていました。

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         坂本誠

2009年5月30日 (土)

百十一: 人と時と場

こんにちわ。
m(_ _)m

今、目の前に北九州のカルスト台地、平尾台を見ながら、これを書いています。Img7d920e9a6b1d
緑たけなわの季節ですね。

先日、友人と話しました。
その友人は、彼の他人より、かなり、「調和性を求めなさい」と言われ続けているのです。
その結果、僕から見たら、その友人は「気が弱くなっているな」と見えるのです。
やはり、あまりにも「調和性を求める」というのは、逆に言えば、個人の持っているちからを封印してしまうのではないとか思うのです。
今は金融危機と呼ばれている時代です。
穏やかな時代ならば、人は丸まっていた方がうまく行くでしょう。
しかし、風雲急を告げられている時代と言うのは、人がアイデアを出し、知恵を絞り、つまり、パワーを出して、時代を進めないといけないかと思うのです。
つまり、時代によって、「調和性が求められている時代なのか、それとも、個性の咲き乱れる時代なのか」という時代のニーズの違いもあるものだと思いました。
また、同じことは場所によっても違うでしょう。
また、上の友人を見てもわかるのですが、人によって求められるもの、又、人によって発揮しないといけないものは様々に違うものだと思いました。
つまり、人と時と場です。
引用の引用ですが、ショーペンハウワーというドイツの人が

「『世界を支配する要素が三つある。分別と力と運とがこれである』と古人がいみじくも言っている」

と書いてあります。
やはり、「分別と力と運」は「人と時と場」に似ているでしょう。

さて、今から車を降りて、緑萌ゆる草原の草を触ってみようと思います。

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         坂本誠

2009年5月29日 (金)

百十三: 地図の無い旅

時おり、人は地図の無い旅をすることがある。Img7d920c584e5e
地図を持たずに足をどこかに向けるか、ゆきあたりばったりに、電車を変えてみるか、目の前のハンドルを右に切るか左に切るかだけだ。
自分の行く先もわからない。
また、そんな時は旅の目的もハッキリしない。

日本の詩人、松尾芭蕉も理由はわからないが、何かがしきりと彼を旅に借り出させた。
その彼の心情を察するに、「旅は苦痛である」とハッキリわかっているのに、彼は旅をしてしまったようだ。

その姿を周囲の人が見ると、単純に労働のように見えただろう。
つまり、旅という名の労働の喜びと苦しみを味わっていたのだ。
その結果が、彼をして奥の細道の上を歩かせたのだろう。
おそらく、足の裏の血豆を幾つも破っただろう。

又、目的の無い旅と言うのは、その旅を終えて、しばらく経った後で、その旅の目的がわかる時がある。
つまり、後の世の人は、彼の旅の目的は何だったのか? と考えてみると、結局、『奥の細道』を書くためだったのだろう、と理解できるだろう。
「目的の無い旅をする」と言うこと自体が旅の目的だったのだ。

目的の無い旅と言うのは、たいてい、気分転換の場合が多いだろう。
一つの部屋に閉じこもっていたら、思考も部屋の中で堂々巡りして、良いアイデアを得られないこともある(ただし、その逆もあると思う)。

地図の無い旅と言っても、なぜかはわからないが、人は目的地に到達することの方が多いように思う。
例えば、「南に行きたい」と思っていたら、たいてい、昼時ならば、太陽の出ている方向が南なのだから、そちらの方向に進めば、いいだけだ。
また、人に道を聞くという手段もある。
また、昼時の太陽を見て、その太陽の左側が東と言う推測も出来ると思う。
だから、地図が無くても、たいてい道に迷うというのは、少々あっても、あまり、たいしたことはない。
たいてい、目的地に着けると思う。

カーナビが色々、どこかへ導いてくれる時もあるが、20年前はカーナビなんか無くても、ほとんど全ての人は目的地に着くことが出来た。
500年前、1000年前でも人間はなんとかなったものだ。
そして、人間の生きてきた幾つかの時代においても、「地図の無い旅」が幾つもあったようだ。
それは時代が混迷している時だ。
つまり、目的もハッキリしない時だ。
しかし、地図が無くても、人々はどこか一つの方向へと向かって歩いているように見える。
例えば、太陽が出ている南へ向かって進んでいるとかだ。

さて、私もどこかへハンドルを切りながら、夢は枯野の中を駆け廻ってゆくだろう。

         坂本誠

2009年5月28日 (木)

四十五: 良心

私の中学時代、非行に走っている友人が何人もいた。
今、彼等の姿を思い出すと、非行に走っている姿は、もう何かの鬱憤晴らしの姿ではなかった。
非行のための非行だった。

おかげで私も大分影響を受けた。
と言うのも、彼等に要求されるのだ。
「我等と同じように、悪を働かないと、おまえを苦しめるぞ」
と。
つまり、悪の拡大再生産と言う所だ。

今の中学生と言えども、かなりあるだろう。
悪が悪を作ろうとしている。
そして、悪に巻き込まれた人間は、「なぜ自分は悪を働いているのか?」と理由を思い出せないかもしれない。
これは非常に良くないことだ。

だが、いずれ時間が経ち、自分の内部の心に良心と言うものも埋め込まれているのにも気付くだろう。
そして、その良心が、内部から広がる光が闇を消してゆく光景と同じように、悪の心を消してゆくだろう。
その時に自分の良心が「悪の心を持っていた」ということを恥じて、自分の心は痛み、苦しむだろう。
悪の心を持っている人たち自身が、「自分は苦しい、自分は苦しい」とよく言っているが、それはそのはず、悪の心を持てば、つまり、それ自身が苦しいことだからだ。
そして、共通して言える事は、悪を働いている人は、決まって、
    「自分は悪を働いている」
と思わないことだ。

そして、昔にも見られたことだが、ある一部の大人たちは「数式さえ教えておけば良い」とか、「ある事柄を教えれば良い」と思っている人も、何人かは今もいるようだ。
だが、そのようなことは、実は教科書と参考書を生徒自身が紐解けば、格別、教え込まずとも自然に生徒が獲得できる知識かもしれない。
もっとも、生徒達が「どうしても、わからない」と悩むときは彼等に親切に、手を添えて、理解の手助けをしないといけないだろう。

「知識を教える」という大人よりも、「心を教える」という大人が、思い出しても少なかったような気がする。
大人と言うのは人格者でなくてはならないと思う。

私の中学時代と今とでも、この状況は変わっていないと考えたりする。

だから大人の中にも、やがて時が経ち、自分の内部に埋め込まれた良心が輝き出して、自分の心を苦しめる時が来るだろう。

         坂本誠

2009年5月27日 (水)

五十七: 猫のぬくもり

我が家の猫ベルに餌を与えてやりながら、よくベルを撫でます。Img7d9d2b3bf87
猫とは温かいものです。
ベルの温もりが私に伝わってきます。
この「ジワー」っとした温かさは何でしょう?
これが生命の火というものでしょうか?
それに優しさと柔らかさが織り込まれているようです。
その火に触っていると、
「また明日も生きてみようか」
という気にもならないでもないです。

人間と人間が触れ合うのは、恋人か夫婦か肉親ぐらいなものです。
どんな人間にも体温がありますが、そうそう、それに触れる訳にはいきません。
しかし、もし、こんな風に、お互いの体温を感じていたら、人間同士の誤解や人類同士の誤解というものは無くなるでしょうか?
そんなことを考えました。

         坂本誠

2009年5月26日 (火)

百十二: おカネ

現在、世界の犯罪と悪のほとんど全て、95%以上ぐらいが、「おカネが欲しい」という欲望から、発生しているように見える。
「おカネは魔物」という言葉を聞いたことがある。

以前、地球上でも、おカネを無くそうと言う試みがあった。
旧ソ連や、北朝鮮などの共産主義と呼ばれる国々だ。
この共産主義では、「まず世の平等を行う」という考えから、全ての成人を公務員にした。
つまり、会社をクビになる人間を無くした。
それは、一つには良い点と言えるだろうが、結果、仕事を怠ける人間、ないしは働かず、
    「私は働かないが、あなたは働いて欲しい」
という人間が現れ始めた。
そして、人々が働かないので、それらの国々は停滞をしていって、崩壊するに至った。

しかし、一方で資本主義の社会は、「全てがおカネである」と言う見方から、人々に労働をさせ続けた。
結果、「おカネが大事」という世界は、逆から見たら、おカネに苦しむ世界になった。
しかし、「おカネが無いので、私は必死になって働かないといけないのだ」ということから、人々に勤労の良さを教えることが出来たのは、これは良かったことだろう。

おカネの起源と言うのは、その昔、物々交換のやり取りをより便利にするために作られた仲介の品物だった。
海の漁師が獲った魚と、山の猟師が獲ったイノシシを交換したい時、お互いが町に出て来て、それらを交換し合うまでに、その魚とイノシシが腐れてしまう。
だから、その不便を解消するために、おカネは発明された。
だから、今でも、1000円札という紙幣自体には、価値が無い。
単純に
    「あなたは1000円と言うおカネを所有していますよ」
と言うことを証明する紙切れだ。
ただの紙切れに「1000円」と大きく書かれている証明書だ。
スーパーなどで、おカネのやり取りをした際に頂くレシートと同じだ。
そして、今、現在でも、基本的には、私達はおカネを仲介にして物々交換をしている。

おカネの用途はかなり拡大されてきた。
今、世の花形と言われる職業と、そうでない職業とでは、月給と言うものにかなりの差がつけられている。
つまり、そうすることによって、より競争させることによって、人間は世を進歩させてきた。

Aと言う人とBと言う人が隣合わせで住んでいるとしよう。
そして、Aと言う人がBと言う人より、1000万円という金額を余計に持っていたとしよう。
こうすることによって、
    「Bさん、私はあなたより、1000万円分、偉いのよ」
と言う、位階の差を示す道具がおカネというものに、現在、なっている。
つまり、人々は、自分と言う存在に、より高い価値と言うものを与えたがっている。
これを人間は、おカネというもので代用している訳だ。

おカネを無くそうとすれば、人は怠けようとする。
おカネが全てだと言って、おカネを拝めば、全てのものに値段札を付けようとする。
結果、おカネを獲得するための犯罪と悪が後を絶たない。

人間と言うものは、どちらかにブレてゆくものだとつくづく思う。

結局、人間に何が欠けているかと言うと、人間の精神性だと思う。
思いやりとか、優しさとか、分かち合いとか、素直で純真な心の下における努力だと思う。

ボランティアで世の中に貢献する人々も、ある程度、見かけられる。

この星の人間の精神性が一歩向上するのはいつの日だろうか。

         坂本誠

2009年5月25日 (月)

七十一: 水仙

おはようございます。
m(_ _)m

所用があって、一週間ほどジョギングをサボっていました。
久しぶりにジョギングをしたら、いつものコースに水仙が咲いてあるのに気付いたのです。
今は水仙の季節なのです。

土手の上に幾つかの水仙が咲いているのです。
立ち止まってよく見ると、ちょっと驚いたことには、その何本かの水仙が等間隔に並んでいるのです。
つまり、ほぼ間違いがなく、人が植えたのです。
他の場所にも幾つか水仙が咲いているのですが、やはりそれらは無造作に生えているのです。
こんな奥ゆかしい優しさを持つ人間もいるものだと思いました。

         坂本誠Img7d9db99ac4d 

2009年5月24日 (日)

七十六: 葦

おはようございます。
m(_ _)m

「人間は考える葦である」
とパスカルさんは言いました。

しかし、動物も様々にモノを考えていると思うのです。
我が家の猫ベルcatを見てもそうですね。
Img7d920c584e7d
いつも、人間から、どのように愛情を注いでいただこうかと考えてばかりいるようです。
だから、全ての生き物は、考える葦かと思います。
だから、パスカルの言うことは拡大できると思います。
その葦の「しなり」具合が違っているだけでしょう。

生き物と言えば、動物だけではなく、植物もそうでしょう。
また、鉱物と言えど、宇宙の大いなる源から誕生した以上、鉱物にも鉱物の意志あり、と言えるかと思います。
元はと言えば、植物の身体も、動物の身体も元素から出来ており、その元素とは鉱物とも言えるだろうからです。
だから、全てのものは、考える葦でしょう。

とりわけ、石などは、しなり具合の悪い葦なのかも知れません。

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         坂本誠

2009年5月23日 (土)

百十: 阿蘇山を見て

おはようございます。

阿蘇山fujiのあたりをドライブすると、いつも思い浮かべることがある。
あの辺の山は、まるで西郷隆盛だ。
つまり、でっかい男だ。
何百キロも続く大草原は、でっかい男の腕だ。
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その上を軽やかにドライブする。
でっかい男の腕の上をドライブする時の気持ちは、僕の方もでっかい男に抱かれているような安心感が湧く。
阿蘇を見て、雄大さを感じる人間も多いが、雄大さと言うよりも、九州男児そのものの山だろう。
それとも、相撲取りが腰を落として、構えている、あの一瞬の姿か。

しかし、本州にある槍ヶ岳のような男の厳しさは感じない。
阿蘇の山を見ることは、男のふところの広さを見るようなものだ。

何時間も大草原の上を走っていると、山の海の上を漕いでいるような気がする。
コンクリートのジャングルの中で、生活していると人間の度量は次第に狭くなってゆくように思う。
「でかい男」とか「大きな男」になるためには、あの阿蘇の山の上の広大な草の上で、自分の身がいかに小さいかを感じておいた方がよいと自分に言い聞かせたりする。
広々とした大草原と、その上に広がっている青々とした大空の両方に、自分の心を充分に溶けこませていた方がよいと自分に言い聞かせる。

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         坂本誠

2009年5月22日 (金)

百三: 猫の目やに

おはようございます。
m(_ _)m

ある街を夜中に歩いている時でした。
人通りの少ない路地の上に猫がいました。cat
ノラ猫かどうかもわかりません。
見ると、その猫の目には、目やにがたくさんついていて、大変可哀想な状態でした。

とっさに我が家の猫ベルの目やにを思い出しました。
僕はほぼ毎日ベルの目やにを取っているので、その猫を見て、憐れに思ったのです。

僕はちょっとためらった後、人気も無いので、ティッシュで目やにを取ってやろうと思いました。
しかし、あいにく、ティッシュがありませんでした。
仕方なくハンカチで拭こうとしました。
しかし、人馴れしていない猫なのか、僕から身体をくねらせて、逃げるばかりです。
餌だけが欲しいのかもしれません。
次第に僕は、

    「この猫は病気かもしれない」hospital

と思うようになりました。
目やにがたくさん付いていたからです。
僕は目やにを取るのを諦めました。

    「もし、病気だったら、僕に移るかもしれない」

と恐怖を感じたからです。
そして、その場を去りました。

やましい気持ちを残しながら。
まだまだ自分も甘いものだと思いました。

         坂本誠

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