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2009年3月

2009年3月31日 (火)

九十五: 帰宅時のサービスエリア(SA)

旅からの帰りのSAで、今、これを書いています。
私は特に用も無く、SAに立ち寄るのが好きです。
SAは高速道路で走っているとき以外に立ち寄ることが出来ない特殊な場所です。
だから、物珍しさから、特に用もないのに立ち寄ります。
すぐに立ち去らなければいけない場所でもあるから、かえっていつまでもいたくなってしまいます。
私にしてみれば、言わばオモチャです。
様々なSAの顔があります。
風光明媚な場所を利用したもの。
凝った庭園を造ったもの。
その土地の様々な土産を山積みしたもの。

ドアを開け、外に出て駐車場にならぶ車rvcarのナンバープレートを見ると、遥かな遠隔地から来ている車が数多いです。Img7d9149ce74a3
休憩所の中のレストランにも人が一杯です。
つまり、今、私がすれ違っている人々virgoは、日本の様々な場所から来ています。
そのような人々と、たった2,3秒のすれ違いの出会い。
もしくは遠隔地とは限りません。
私の街の名前を付けたナンバープレートもあるから、私は私の近所の人間とも、すれ違っているかも知れない。
そして、その2,3秒だけの出会いの後に、お互いがSAを出ると、おそらく、もう永遠に出会えない仲なのでしょう。
SAの中では全ての人が異邦人になります。

         坂本誠

2009年3月30日 (月)

四十四: 子供から見た親

この下の文章も、今(2009/3/30)から、17年も前に書いたものですが、やはり、今、見直してみると、恥ずかしいものです。

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                                                                    1992/8/27
                                                                   
僕達がよく耳にする言葉に、「親に感謝して生きろ」「親に反抗するな」等などがある。
生まれ育って社会人になるまで、衣食住は親に頼らなくてはいけないのだから、親には感謝すべきなのだろう。
「親に感謝して生きろ」と怒鳴りつけられた子供は大体、親に反抗する。
たとえば「おまえが俺を勝手に生んだのだから、俺の面倒を見るのは、おまえの義務であり、当然の責任だ。俺が頭を下げて、おまえに感謝する必要は無い」と。
小学校の時だったか、僕が親子喧嘩をした時に右のようなことを言った記憶がある。
誰にでもある経験だと思う。
小学校の身分ではまだ世の中の大人や社会のことも十分に知りえなかったが、今は違う。
僕が思うに、世の中の親と言われる人々は感謝しなくてはならない、と思う。
逆説的に聞こえるかもしれないが僕はそう思う。
親は子供に感謝しなくてはならないと思う。
子供を生むと言うことは本能によって導かれていることでもある。
だが、その理由だけで人は子供を生むだろうか? 
もし本能だけによって子供を生むと言うのなら、「子供を生む」ではない。
「子供を作る」である。
人間の場合には複雑な思いが込められている。
親にとっては子供が自分の分身のように思えるだろうし、又、子供を育てる喜び、子供が育ってゆくのを見守る喜びもあるだろう。
そんな気持ちで世の親は子供を生むのではなかろうか?
親にとって、どれだけ子供が必要なことかは、極端な例を見てみればわかる。
子供が車にはねられて死んだとか、流産したとか、子宝に恵まれない若い夫婦とか、その辺の悲哀はテレビドラマ等に克明に描かれている。
一般に夫婦の間に子供がいないというのは苦痛なことである。
若い時分ならまだいいだろうけど、年を重ねてゆけば切実な問題になってくる。
子供や孫のいない老夫婦というものは見ていて片腹痛い。
一つの家の中に夫がいて、妻がいて、明るく可愛い子供がいる。
親にとって子供がいるということが、どれだけ生活の潤いになることか。

以前に高校の授業中に聞いた話だが、夫も妻も40代の人だが、彼らには子供が授からなかった。
彼等はその切なさを打ち消そうと小型犬を一匹飼った。
犬の下の世話は勿論、犬用の服まで着させ、侵食を共にするという惚れ込みようだった。
ところが彼等の間に、おそまきながら、第一子が誕生した。
途端に犬は屋外に出され、汚れ果ててしまったらしい。
親と言うものは自分の可愛がる対象が無いとやっていけない。
子供のいない大人は親とは呼ばない。
単純な大人である。
子供がいるからこそ、親は好きでもない仕事を続けることが出来るし、諺にも、あるとおり、

            子はかすがい

だろう。
だから、親は子供に感謝しなくてはならないと思う。
何も頭を下げて、口に出して子供に感謝する必要は無い。
仕事に、或いは生活に疲れた時でも我が子の笑顔を見れば心は安らぐ。
親も人間である。
親だって、元気にしてくれる活性剤が必要だろう。

こう考えて見ると、やがて次の考えが浮かんでくる。
表現は悪いが、
「親は無意識のうちに子供をペットとして、生んで育てている。」
子供がほしいと言う理由は多々あるだろうけど、そのうちの一つに、「子供が可愛いから」という、押し隠された愛情があるのも否めない。
可愛い子供であるからこそ、さらに可愛いがってやりたくなる。
子供が乳幼児期を過ぎて、知性や理性をそなえつけるようになると、今度は親の理想や夢を子供に託してみたくなる。
とにかく子供は親にしてみると、かけがえの無いものだ。
親というものは自分の可愛がる子供(対象)がないとやっていけない。
親も人間だから子供に頼る時だってある。

         坂本誠

2009年3月26日 (木)

八十九: 私の犬、マク_No.2

この悲喜憐偉の五段目、『私の犬、マク』で、私の飼っていた以前の犬dogの事を紹介しました。
そして、今日、再び彼と出会うことが出来ました。
勿論、夢の中でです。night
やはり、私は彼と共にいつものコースを散歩していました。
そして、散歩で出会った犬とケンカをするので、そのケンカを仕掛けてくる犬を私と共に追い払いました。
散歩だけなら、まだしも変わったことには、今夜はマクが道端で眠り込んだので、私もマクを抱いて一緒に眠りました。
途中、右手が濡れていたので、

    「マクのうんこかな?」

と思い、右手を見たのですが、違っていたので安心しました。
そして再び、散歩を続けて、ここで私は目が覚めました。

人間、目が覚めた時に枕が濡れている時も多々あるものです。
今、目が覚めて、この文章を書いているのですが、今だに思うことは、

    「こんなにも、マクに対して世話が足りなかった」

と、つくづく痛感しています。
夏場はもっと蚊取り線香を炊かなくてはいけなかったこと。
毎日、ダニを取ってやらなくていけなかったし、冬場はもっと毛布を敷いてやらなくてはいけなかったし、病院にも連れて行かなくてはいけなかったし、数え上げたらキリが無いです。
つまり、家の中で飼わなくてはいけませんでした。

しかし、夢の中で散歩が出来て、又、一緒に寝られたことが私にとって何よりの慰めかもしれません。

         坂本誠

2009年3月25日 (水)

八十七: 男のヒゲについて

僕はいつも思うのだが、男にヒゲが生えるのを不思議に思う。
ヒゲとは何の役にも立たない。
(しかし、私事を言わせていただければ、ヒゲを剃る時に、心地よさを感じる。この点においては役に立っているかもしれない。)
アザラシやライオンの姿を見ても、オスにヒゲが生えているのを見ることが出来る。
オスにヒゲが生えるのは男性ホルモンの影響だと聞いたことがある。

しかし、同時に男は頭の髪の毛が薄くなることに悩む人も多い。
だから、ここから先は少し笑える話でもあるが、僕が考えるに頭の髪の毛の薄くなってしまった男は顎の皮膚と頭皮の皮膚を入れ替えて、移植すると一石二鳥かと思う。
アゴヒゲが頭の上にくっついていれば、髪として伸び続ける。
髪の毛の薄くなった頭皮が顎にあるから、ヒゲとして伸びる事は無い。
又、自分の身体の一部を他部所に移しただけなので、生体拒否反応が起こる事はない。

         坂本誠

2009年3月23日 (月)

四十三: 長距離走者と短距離走者

下の文章は、今(2009/3/23)から、16年も前に書いたものですが、やはり、今、見直してみると、恥ずかしいものです。
多分、今から、16年経った後に、今の僕の文章を見直しても、きっと恥ずかしいだろうと思います、、、

四十三:    長距離走者と短距離走者
                                                                    1993/5/12

人生は長いか短いかで決まるものではない。
世の人々の考えによれば、長寿は良いこととされている。
しかし長い人生を送った後の老人の心境が果たして幸福か不幸かであるかは、彼自身にしかわからないであろう。
自分の背後を振り返って、今まで自分のたどってきた長い人生の旅路において、幸福や不幸の大波、小波を彼は発見するであろう。
しかし、死ぬ間際に他人に感謝しながら、心安らかに死ねるか、その逆になるかは、ひとえにその人物の心持ちに左右される。
つまり、私の言いたいことは、人間は死に際が大切だと言うことだ。

「終わり良ければ全て良し」      シェイクスピア

一方、短命というものは、世間の人々が言うに、非常に不幸なことだと解釈されて言る。
しかし、私はこれに異論を挟む者である。
例えば詩人などは比較的に短命である。
だが、彼等が本当に不幸であったかは、果たして疑問である。
彼等の苦悩、嘆き、幸福感、愛情、等などのみずみずしく、洗練された心の響きは、彼等の詩集を開けば、直接、私たちの心の糸と触れ合う。
確かに「やりたいことができなかった」と言いつつ、早死にする若人は不幸であろう。
が、自分のやりたいことを敢行し、それのために命を落とすようなことになっても、又、それをやり遂げたらならば、死んでも悔いはあるまい。
その人間の死ぬ間際には、彼は幸福感とやり遂げた後の実感をかみしめて、無情の法悦間と共に死んでゆくであろう。
おおよそ命懸けとはこのようなことを指す。
新約聖書中のイエス・キリストの言葉、「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただの一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」
                            (ヨハネによる福音書。第12章24節)
これも、大体、同じような意味であろう(無知な私はそのように、勝手に解釈している)。
要するに人生は長い短いの差で価値が測られるのではない。
いかにして充実していたかが問題なのである。
人生における長距離走者と短距離走者には明らかな違いがある。
長距離走者は長い道のりを走る。
その間はマイペースで行かねばならない。
走り始めたばかりだと、まだまだ、ゴールは見えてこない。
しかし一歩一歩、踏みしめてゆけば、それは着実にゴールに近づいているのである。
これに反して短距離走者は、ゴールが目の前に控えている。
彼の目にはゴールが映っている。
スタートすれば、そのゴールに目がけて、全力疾走し、燃え尽きるのみだ。
どちらの人生にも様々な障害があるだろう。
私はどちらかと言えば、後者の方であろう。
明日、死んでも悔いの残らぬように人生を全力疾走し、走り続けるだけだ。
我々は生きている。
ただ、その日の食にありつければ満足かもしれない。
しかし、我々はほとんどやりがいを失い、黙々と働き続ける。
私は何のために生きるか、ではなく、何のために死ねるか、という生き方をしたい。
命懸けになれるもの、それを追求してゆきたい。
命を捨てても惜しくないもの。
そのために私は自分の命を使いたい。

         坂本誠

2009年3月22日 (日)

八十三: A.M.4:55

Img7d8467739162 今、朝の暗闇の中で、これを書いています。
朝、早くに目覚めたのも変に感じるのですが、もっと気持ち良くないのが、夢を見なかったことです。
夢を見たのかもしれませんが、どうしても思い出せません。
普通ならば、僕はたくさんの夢の内容を思い出せるのです。
怖いものやら、楽しいものやら。
それに、「夢を見た」という記憶がある事自体が、何よりも、「寝ている間にも生きている」と言うのを証明する、唯一の証拠だと思うのです。
その証拠が無い。
だから、夢を見た記憶を取り戻せない朝は、のっぺらぼうの顔を掴んだような、ヘンな思いです。

死んでいる間の記憶。

早朝の暗闇の中で、壁時計の秒針の音が聞こえます。
考えてみれば、時計の秒針の音もヘンなものです。
深夜の静かさを否応が無しに深めてゆくように、僕は感じるからです。

奇妙な事は、案外、身近な所にもあるものです。
自分の肉眼で自分の脳味噌を見るようなものです。

今、朝の5時15分です。

         坂本誠

2009年3月21日 (土)

三十九: 清掃作業

_3 僕は自分の愛する海岸の清掃をした。
なんとなれば、自分の愛するその海岸がゴミで汚れていたからだ。

海岸がゴミで汚れていると言うよりも、多くの人の心が汚れていると思う。
ゴミは人の心の現われなのだと思う。
何とも言えない。

大量のゴミが海からも漂着していたようだが、中には明らかに違うゴミもあった。
同じコーヒーの缶ばかりが同じ箇所に大量に捨てられているのだ。
つまり、定期的にここに来て、ある程度の時間、ここに座っているような人間がいるのだ。
それと同じく、タバコの吸殻も同じで大量に同じ箇所に捨てられている。
やはり、同じ人物の可能性が高い。
おまけに、ある程度の量の薬のセルロイドの包装まで捨てられていた。
やはりある程度の時間、ここに居座っている人間がいるのだ。
しかも量が多いことからわかるのだけど、これは大人である。
この海岸は、あまり人が来ない。
誰も見ていないと思って、この人間はゴミを捨てたのであろう。
ハンター達は動物の痕跡を食べかすや糞、足跡などを見て動物の存在を判別する。
それと同じように、つまり、このゴミを捨てた人間は、自分の心を僕に見られたと言うわけだ。

僕は清掃作業をしている時は、やはり、
「多くの人の心が汚れているのだ」
と義憤を感じていた。
しかし、怒りを感じることが良いことであろうか。
清掃しなかった方が、僕は怒らずにすんだかもしれない。
しかし、清掃もしてやらなくては、この海岸はますます汚れ、美しい景観もダメになるのだ。
そちらの方が心が痛む。
また、僕にしても、清掃をしている間、
「僕は打算の心があって、つまり、人から善人と思われたくて、つまり偽善者として振舞いたいのではないのか?」
という疑問の心も浮かんだ。

清掃作業をするだけで、こんなにも僕の心は様々に考えてしまうとは、、、、、、
まだまだ、生まれた直後の純粋に真っ白な心には程遠い、と考えてしまった。
まだまだ僕の心も清掃を続けなくてはならないのだ。

色々あったが、清掃した後の海で一人で神に祈る一時はすがすがしい心でいられた。
これは良かった。

         坂本誠

2009年3月20日 (金)

四十八: 中道と変革

『戦い』という四十二段の項目で、中道の難しさについて書きました。
しかし、今、考えるに、この「中道」というものにも問題があることに気が付きます。
つまり、「中道、中道」と言って、均衡を守り続けるとしましょう。
今度はなかなか、進歩を促すことが出来なくなると思う。

例えば、近世フランスのルソーにしても、当時にしては、革新的な考えを述べたと思うのです。
つまり、世の中の均衡を破らなければ、世界を良い方向に変えることが出来なかったと思うのです。
絵画の世界でも、ピカソの『アヴィニョンの娘』を発表しないと、絵画の世界を新しい方向に進めることが出来なかったと思うのです。
文学の世界にも、このような例は幾らでもあると思うのです。

日本の幕末の明治維新は、江戸幕府から見たら、完全な反逆だったと思うのです。
世の中の均衡を破ったのだと思う。

ある程度の均衡を破らなければ、前に進めないことがあると思う。
「世界全体を進めるために」、とか、「良い方向に進めるために」、だ。

だけど、ここにも問題があると思う。

    「何かを変えれば良い。何かを変えれば、それは良いことだ」
   
とは言えないと思う。
強い意志の元、変革を進めないといけないときもあると思う(それには、まず善意がなければいけないのだが)。
だけど、「変革。改革」と改革を推し進めるのは、これまた中道の道を歩むと言うことに相反していると思う。
だから、変革そのものを変えると同時に、バランスの取れた中道の道も考えないといけないと思う。
世の中は難しいと思う。

         坂本誠

2009年3月19日 (木)

六十: 文芸作品の値段

人々は作家や画家に言うかも知れない。
「彼等のかいたモノが金になっていなければダメだ」と。
ここでもおカネが問題とされていると思う。

有名な画家のゴッホは生前に売れた絵はたった一枚だった。
しかし、今、彼の描いた『ひまわり』とか言う絵は確か50億円で売られたと僕は記憶している。
また、『赤と黒』で有名なスタンダールも生前は売れなかったそうだ。
しかし、今はクラシックの一つとして多くの書店に並べられている。

つまり、おカネと言うものは魔物だと思う。

結局、上の絵の『ひまわり』でもそうだが、ゴッホの精神性が今は50億円という訳だ。
芸術家は自分の精神を作品の中に塗りこめるから、つまり、ゴッホの精神性が今は50億円なのだ。
ところが時代が変われば、この値段も変わる。
人々が、この『ひまわり』に価値を見出せなくなれば、『ひまわり』は1円になるだろう。
遠い未来にはその可能性もある。
ナチス・ドイツは1,920年代、30年代、40年代の最先端の絵を『退廃芸術』と鋲を打ち、没収、ないしは焼却をしたと言われている。
つまり、それらの絵の価値は、当時、0円だったのだ。
しかし、当時のドイツとしては、それらが正しいことだったのだ。

だから、本来ならば、芸術作品をおカネで、やり取りするのは、少々、間違っていると思う。

現代の本屋にはたいてい聖書が売られている。
僕が聞いた所、聖書は世界一のベストセラーだそうだ。
しかし、僕が聖書を読んでいても、イエス・キリストが山上の垂訓を行った際に、人々から「おカネを請求した」とは書かれていない。
また、他の場所で法を説いた際にも、その人々に「おカネを請求した」とは書かれていない。

         坂本誠

2009年3月18日 (水)

八十四: 美術館にて

忙しい日常から一歩抜け出て、美術館に来ました。
僕は美術館に来た時、心が安らぎます。

神聖な空間。
神殿の中での祈りの最中にも似た一時。

今、僕の目の前にある空間の形容することの出来ない形容を何と伝えれば良いでしょうか?
僕の靴音だけが、その空間に木霊します。
靴音が消えてゆく様は、まるで、よどみに浮かぶ泡が消えてゆくのに似ています。
Img7d913ecaae41 

頭から、やわらかい安らぎの色をした円筒が立ち昇っているかのよう。
安堵の大きな息を吐いています。
落ち着きと安らぎの二つの似通った想いが、糸のように絡み合い、縄のように組み合わされて、天上へと昇り続ける。

そして、なぜだか僕は眠くなります。

         坂本誠

 

            

                                                      

               坂本誠 作 『盆栽』 2008年11月26日

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